随筆・その他
「 新 米 開 業 医 」
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突然の開業から4ヶ月目を迎えたところです。前勤務先の病院が、癌治療を中心とした病院を目指していたため、4月で退職するべく3月末に退職届けを出しました。同じころ、同級生のE先生から、閉院する先生がいて誰か後をしてくれないだろうかと言っているけど、話を聞いてみませんかという話が舞い込んできました。なんと清水先生は私が大学にいる時、よくテニスコートでご一緒した先生でした。当時、先生が薬理学の教授をやめて開業する予定だという話を伺ったとき,「先生、教授までされているのに、今から開業して苦労されることはないじゃないですか。定年まで勤務されたほうがよくないですか?」と、今考えると冷や汗ものの失礼なことを申し上げてしまいました。先生は鹿児島県にスキー協会を設立されて、国体にスキー選手を派遣するなど、何事にも熱心に取り組まれる方であったので、開業されてからも持ち前の集中力と、誠心誠意の診療により、地域の住民の厚い信頼を得ていました。その先生が突然おやめになると聞いて、これまで診て来られた患者さんたちが病院の存続を願って、先生にお願いにあがったのは当然のことと思われます。そこで先のE先生に誰かいないだろうかと相談することになり、フリーター予備軍であった私に話が回ってきたという訳です。お話を伺って、病院の存続が第一命題であることがわかり、先生のお人柄もよく存じ上げていて、大学時代なにかとお世話になった先生でしたので、先生のご期待にこたえることは難しいかもしれないが、お役に立てればと思い後釜として先生の病院で仕事をさせていただくことになりました。先生には北大を卒業されて腎臓内科医をされている、すばらしいご子息がおありですが、北の大地のおおらかさに魅せられて北海道を離れたくないとのことでした。ちょうどこの話が進んでいるころ、3月、4月と鹿児島に帰ってこられて、患者さんに紹介状を渡して、閉院の準備を進めているところでした。突然の方針転換で急遽「5月からも病院はありますよ」と伝えていただき、少なからざる患者さんが引き続き受診してくださることになりました。引継ぎに当たっては、ご子息の淳先生には本当にお世話になりました。紙面をお借りして厚く御礼申し上げます。
さて5月1日いよいよ開業医としての第一日が始まりました。職員は退職した事務の1名を新規に採用したほかには、事務1名、看護師3名は清水先生の時代からそのまま残っていただくことができ、職員も患者も勝手知ったる病院の中で、何もわからないのは院長だけという、無難なまた、不安な第一日でした。幸い清水先生がよい診療をされていたおかげで、初日からぽつぽつと患者さんが受診してくださり、近頃の新規開業としては非常に恵まれたスタートをきることができました。全員が初診の患者であるため、これまでの病歴聴取やよもやま話を聞くのに時間がかかり、待合室は大賑わいでした。しかしこれには裏があり、開業当初は、医療器械屋さんとか、薬の卸の社員とか、製薬会社の人たちが大勢詰め掛けて、挨拶にくるのです。何も知らないテニス仲間の友達が挨拶代わりの診察に来て,「先生すごいですね!」といわれると恥ずかしいような気持ちになりました。さらに昼休みには、いろいろな契約書であるとか、口座引き落としの依頼書とか山のように書類があって、何を書いて何を預かったままになっているのかさえも整理がつかず、銀行に行くと、肝心な書類を忘れていたりで、とにかく雑用に追いまくられて時間がいくらあっても足りないと感じていました。緊張もあって当初は疲れも感じていなかったのですが、数週間たったある日の昼休み、2階の自室の椅子に腰掛けたまま眠り込んでしまいました。ちょうどその日は午後から往診に行く日でした。1階の診察室では職員が、時間になっても現れない院長を待ちかねていました。それまで遅れたことはなかったので「もしかしたらもう車に乗って待っているんじゃない?」、「早く行かないと先生が待ちくたびれているかも」と緊張の面持ちでその日当番の看護師はあわてて駐車場に走りました。でも誰もいません。これはおかしいと一人が2階へ駆け上がってきました。その地響きで目を覚ました私は、15分も定刻を過ぎているのにびっくりして、飛び上がりました。平身低頭して車に乗り込み、スタート。後ろから「ちゃんと目を覚まして運転してくださいよ!」と鬼軍曹の視線が突き刺さります。外来診療はなんとかこなせるようになって来ましたが、もともとあまり急いで仕事を片付ける性格ではないこともあって、いつのまにやらマイペースになってしまいます。ひとり20分近くかかって、待ち時間が長くなってくると、受付から診察室の看護師にブロックサインが出されます。それを受けた看護師は優しい顔に、有無を言わせぬ厳しいまなざしで「急げ!」ビームを発します。老化の始まった頭は、使い慣れない薬の処方に時間がかかり、薬の名前が出てこなくて処方を考えている振りをしながら思い出そうとすると、なぜか意味もなく「アリセプト」が頭の中をめぐります。でもわが医院の強みは、職員がみんなしっかりものだということです。患者対応の改善点などは積極的に提案してくれます。なにしろここ3ヶ月の仕事ぶりを見て、これは自分達がしっかりしないと大変だと見抜いたようです。私が何か考えていると「はいはい、私達が仕切ってあげるから先生はどんどん仕事をして!」。ちょっとペースが落ちると、やる気がなくなっているなと察して「はい先生、お茶をどうぞ」と絶妙のタイミングでお茶が出てきます。「さっさと飲んでまた働けよ!」という無言の圧力が背中にのしかかります。患者と話をするのが息抜きとなって、こうして私の一人当たりの診療時間がまた長くなっていくのです。
もう一人?わが医院には癒しのスタッフがいます。それが清水先生の置き土産、黒猫の「ジジ」です。ジジと言っても私の「爺」ではなく、れっきとしたメスの美猫です。なかなか賢い猫で、私が着任したすぐから、私にすり寄って甘えてみせるパフォーマンスに職員全員が思わず「おーっ!」と声を上げたほどです。また外に出たいときにはドアの鍵のところに手をかけて,「ここ開けて」の仕草をしますし、えさ箱が空になると、箱の前で人の顔を見上げてニャーニャーと鳴いて「空だよ」と訴えます。始業前の朝礼では職員と一緒に並んで挨拶をしますが、最近は慣れすぎて、ごろんと横になって院長の話を聞くようになりました。「お前のえさ代は、経費では落ちないんだぞ。わかってるのか!」と思わず喝を入れたくなる今日この頃です。
時々というかしばしば、私の手に負えない、あるいは想定外の患者が訪れ、前勤務先の南風病院、医師会病院をはじめ近隣の先生方のお手を煩わせることになります。いつも暖かく対処していただき本当に助かっています。手紙など書くことのない私が、紹介状の書き方だけは早くなりました。患者の中には、私に診てもらうというよりは、待ち時間がなくてすぐに紹介状を書いてもらえるということで評価している人もいるようです。時には受け取る段階になって「もう行きません」といわれて、予約していた検査をキャンセルしてもらったりすることもあり「えーっ!何それ?」と思うこともあります。しかしそんなことはめったになく、今日も私の脇を患者がスルーパスして行きます。
最近の経済情勢とりわけ、高齢者世帯の厳しさを肌身に感じます。患者にとって医療費は必要経費として定額の予算が計上されています。薬はジェネリックを使ってできるだけ安くしたいと思いますが、どうしても先発品を使わざるを得ないことや、コントロールが悪いため、薬の種類や量を増やさざるを得ないことがあります。でも300円も窓口の支払が増えることは患者にとっては大変なことなのだということが痛感されます。特に高血圧や糖尿病では自覚症状に変化がないため、支払額が増える薬の処方変更を躊躇します。今の状態と、これを放置したときの将来の病気の進行を丁寧に説明して何とか了解していただいていますが、必ずしも納得されてはいないだろうなと感ずることもあります。次に受診されたときにこの前もらった薬はもう要らないといわれることもあり、健康を守るための医療と、経済負担を天秤にかけなければならないことに矛盾を感じています。今の恵まれた生活は、今は高齢になられたたくさんの方々の大変なご苦労の上に成り立っているのだと思うと、せめて健康を守るための費用は気にしなくてもよいようにできればと思います。国の基盤である農業、漁業、林業に対する政策は一貫性を欠き、将来の地球温暖化と、耕作地の減少は国民の生活を壊滅的なものにするのではないかという不安を禁じえません。同様に国民の健康を守る医療についても、皆に安心を与えるというものから程遠いことを実感します。1-2年先のことも見通すことができない一部の官僚と、これに操られて、税金を使って票を買うような政策しか提案できない一部の政治家にはほとほとあきれてしまいます。投票率が低いのは、若者に政治に対する関心がないからだと片付ける前に、今の政治や政治家にいかに皆が期待していないかの表れだということを認識することからはじめてほしいと思います。開業してみると今までは漠然と考えていたことを、具体例を身近に見て、より切実にまた緊迫の度合いを増して感ずるようになりました。
ところで今の私の標榜科ですが、内科、小児科、循環器内科、心臓血管外科、外科と盛りだくさんです。こんなにいろいろ挙げて患者の信頼を得ることができるだろうかと、ちょっと迷うところもありましたが、あえて全て掲げることにしました。私は卒業後小児科を選択し、そのころの大学の小児医療に満足できないところを感じて、東京逓信病院小児科で研修しました。しかし風呂でおぼれた子供に対して小児科医が無力であったのを見て、これは救急蘇生ができないといけないと思い、麻酔研修をさせてもらいました。小児麻酔を中心に多数の症例を経験しましたが、今度は麻酔科の力では開腹手術の必要な子供に対しては力が及ばないことを感じて、子供を助けるためには外科ができないとだめだと思い、小児外科を学ぶために大学に戻りました。4年間小児外科を勉強しましたが、当時の小児外科は、子供を助けるにはあまりに非力でした。再び他の施設を探すには、根無し草になる恐れもあり、子供もいましたので自分のわがままで家族の安心を犠牲にすることはできないと考え先輩に相談しました。「心臓外科にも先天性心疾患の子供の患者がたくさんいるので、小児心臓外科をやったらどうだ?」と提案され、やっと方向を定めることができた次第です。しかし、しばらく勉強していると他の施設との成績の差があまりに大きく、問題の核心が見えてきました。それとなく改善点を具申したのが運の尽き、殿の逆鱗にふれ、それから後は飼い殺しの大学生活でした。さすがにこのままでは将来に希望が持てないと考え、平成4年に大学をやめ、その後第2外科の教授となる坂田先生のいた熊本中央病院で3年間さらに研修し、南風病院に迎えられました。希望に満ちて南風病院に来たものの、消化器中心の病院と、循環器中心の病院にしようという二つの考えの間に翻弄され、結局満足の行く仕事はできないままでした。このように傍から見るとなんとも恵まれない医師人生のようですが、出張病院を含めその時々は、十分楽しい、それなりに恵まれた生活でした。
家庭では3人の娘に恵まれ、帰れば毎日がハーレムでした。忙しい心臓外科医の生活だった割には、子供達と過ごす時間も比較的長く、親の子離れは早くからできていましたが、甘えん坊の娘達の親離れができず、嬉しいようなわずらわしいような気持ちでした。しかし、そこは家内の薫陶を受けた娘達のこと、うまく父親の弱点をついて鶏がらのようなすねにかじりついてきます。父親に甘えてみせる、初歩的なテクに簡単に崩されてしまう我が守りは、娘達から見れば砂糖で作った城壁のようなものでしょう。今年の7月に長女が、帰ってきました。一人暮らしの生活になじんでいたので、何かと大変なこともありますが、助かることもあり、しばらくは孫の相手をする生活になりそうです。自分の子育てのころと違って、この歳で11ヶ月の赤ん坊の相手をするのは、骨が折れます。つくづく子育ては若くないとできないと感じています。
私が何か語るとすれば、テニスを忘れるわけにはいきません。学生時代から40年間、途中3ヶ月ほどのブランクが2度あった以外は、ほぼ休みなく続けてきました。続けられた秘訣は、なかなか上手にならないということです。周りを見回しても同年代の友人が多数ラケットを振っています。不思議なことに遠くから見て、顔は見えなくてもラケットの振り方で誰かわかります。それくらい皆個性的なスイングなのです。うまく打てないところは何年たってもうまくなりません。何度も素振りを繰り返しては、今度こそ良いフォームを身につけたから、見違えるようなボールが打てるからねといっては、家内や子供達に耳にたこができたと笑われていました。でも向上心だけはあるので日々ああでもない、こうでもないとフォームの改造に余念がないのです。一方学生時代に何度も優勝し、頂点を極めた先輩の湯田さんなどは、体力の衰えとともに未練なくコートから遠ざかっています。かくして若いころから優勝に縁のないわれわれは今日も、真剣なまなざしでコートに立つのです。そんな私も昨年の9月から突然膝を痛めて、一時は歩くことも儘ならないほどでした。幸い4月ごろから少しずつジョギングができるようになってきましたが、まだダッシュは1歩もできません。身体の故障が出ることなど考えてもいなかったので、すっかり落ち込みました。こんなにも精神的に打撃を受けるものなのかと自分でも驚くほどでした。しかし今は膝の痛い患者が来ると、その辛さが良く理解できて、膝談義で盛り上がってしまいます。今のところ膝が良くなる兆しはみえませんが、あせらず経過を見ようと思っています。開業以来、預金残高はつるべ落としに減っていますが,「やまない雨はない」と虹のかなたに気持ちを馳せています。還暦を前にしてもう一度、リフレッシュしていろいろなことにぶつかっていきたいと思っている今日この頃です。
| 次回は、鹿児島医療センター 外科部長の宮崎俊明先生のご執筆です。(編集委員会) |

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