随筆・その他

リレー随筆

「 六   月 」

南区・谷山支部
(東開内科クリニック)
             植松 俊昭
              (藪 閑人)

 六月といえば、まず実感として、唱歌「夏は来ぬ」が思い浮かぶ。そうあの美しい文語詞と音曲のうた。作詞は歌人にして国文学者で、古典研究の先駆者かつ泰斗佐々木信綱。作曲は東京音楽学校(当時、現東京芸術大学)助教授小山作之助。

  卯の花の 匂う垣根に
  時鳥(ほととぎす) 早も来(き)鳴きて
  忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
                        (以下二番〜五番は略)

 一番から五番まで歌詞は和歌と同じく、すべてやまと言葉による三十一文字で、末尾に「夏は来ぬ」の五文字が添えられている。この佐々木信綱の古典、古歌に対する深い素養、学識と美意識に裏打ちされた歌詞を、この時期、時折口の端(は)に上(の)ぼせている。すぐれた文語詩、文語文はやはりいい。
 余談ながら、小学校三年生から英語教育をなどと、愚かしいことを言い出す前に、凛として美しいたたずまいの文語詩、文語文をまず暗唱させてはどうかと思う。
 大学に入学して初めての鹿児島での生活。驚いたことは、何と春の季節の短いこと。うらうらに照れる陽射(ひざし)の中、光る風(季語は春)に吹かれ親しむ間もなく、そそくさと足早に新緑の夏に入ってしまった。しかし木々の葉末をわたる馥郁とした薫風はとても爽やかで、例の五月病(さつきやみ)(因みに「夏は来ぬ」の五番にあるのは「五月闇」)とやらに陥ることもなく、学生生活を謳歌した。

  かぜとなりたや はつなつの
  かぜとなりたや かのひとの
  まへにはだかり かのひとの
  うしろよりふく はつなつの
  はつなつの かぜとなりたや

 川上澄生の詩である。時に口ずさんでは往時を偲び懐かしんでいる。(別にストーカーではありませんからネ、ゼッタイ。念の為)
 そして今、六月。風待月(かぜまちづき)とのゆかしい異名もある。もっとも旧暦でいえば夏の盛り、心地よい涼やかなそよ風を恋しく待つといった意味合いであろう。
 先年他界した好きな詩人、茨木のり子さんに「六月」と題する美しい詩(うた)がある。

  どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒(くろビール)
  鍬(くわ)を立てかけ 籠(かご)を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

  どこかに美しい街はないか
  食べられる実をつけた街路樹が
  どこまでも続き すみれいろした夕暮(ゆうぐれ)は
  若者のやさしいさざめきで満ちる

  どこかに美しい人と人との力はないか
  同じ時代をともに生きる
  したしさとおかしさとそうして怒(いか)りが
  鋭い力となって たちあらわれる

 どこかにこんな詩を掲げて、選挙に打って出る政治家はいないか。ハッタリ交りの虚しい絵空事の公約と、阿呆陀羅経の空(から)念仏、馬鹿馬鹿しい名前の絶叫連呼なんかしない。無論ないものねだりを承知の上で。間もなく知事選挙、そしておそらく時を経ずして総選挙。もう少し政治家は、そしてそれを選ぶ我々も、言葉の美しさ、力をもっと感じていい、信じていい。何せここは言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国だもの。
 閑話休題(話を変えて)、「六月の花嫁(June bride)」という言葉が泰西にある。六月に結婚した花嫁は仕合せになるのだそうな。この蒸し暑い六月になんでそんなと訝(いぶか)っていたら、何のことはない。西洋で、六月が女性と結婚生活の守護神ジュノーの月であることから、この月に結婚すると幸福になるとされる(広辞苑)とある。なるほど、我々日本人とは無関係、縁なき衆生と得心。
 結婚といえば、これも好きな詩人、吉野弘に「祝婚歌」という、いささか説教じみなくもないが、すぐれて良い詩がある。少し長くなるけれど。

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと気付いているほうがいい
  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい
  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい
  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで
  疑わしくなるほうがいい
  正しいことを言うときは
  少しひかえめにする方がいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい
  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったり ゆたかに
  光りを浴びているほうがいい
  健康で 風に吹かれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと 胸が熱くなる
  そんな日があってもいい
  そして
  なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい

 生来の口下手で、結婚披露宴でスピーチをたのまれると、この詩を新郎新婦への贐(はなむけ)に使わせてもらっている。吉野氏には只管(ひたすら)感謝。
 そういえば小椋佳に「六月の雨」ってポエティックなうたがあったっけ。かれのうたを聴けばそのためかいつも六月を連想してしまう。若き日のこの時節「さらば青春」や「しおさいの詩」とか好んで聴き弾きうたっていたせいもあるのかもしれない。どうでもいいことだけれど。
 話が取り留めなくなってしまった。つまるところ、「六月」に託(かこ)つけて我が国人(くにびと)の季節におそろしく敏感であることを言いたかった。不思議なことに文字通り空気が読めるのである、見えるのである。
 『土佐日記』の著者紀貫之に、その四季の移ろいを立春にのぞんで見事に詠んだ歌がある。

  袖ひちてむすびし水のこほれるを
  春立つけふの風やとくらむ
                         (『古今集』春歌上)

 貫之は一流の歌人、古今集は名詞華集と思うが、かの正岡子規は、ことのほか嫌いだったらしく、著書『歌よみに与ふる書』で、「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にて有之候(これありそうろう)」と口を極めてけなし、こき下(お)ろしている。成る程、子規は立派な文人とは思うが、ことこれに関してだけは肯(がえん)じ得ないでいる。
 『古今集』撰者のひとりでもある貫之は、その冒頭あの有名な假名序で、和歌の本質と効用を「やまとうたは、人の心を種(たね)として、万(よろづ)のことの葉とぞなれる。(略)心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひだせるなり(略)力をもいれずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをむな)の仲をも和(やわ)らげ、猛(たけ)きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」と述べている。
 ふ〜む、そういうものかしらん、と思っていたら、その後、江戸期の洒落者(しゃれもの)が狂歌で絶妙に突っ込み、チャチャを入れオチョクっている。曰く、

  歌よみは下手(へた)こそよけれ天地(あめつち)の
  動き出してはたまるものかは
                        (宿屋飯盛(やどやのめしもり))

 う〜ん、うまいなぁ。脱帽、頓首。
 やっぱり日本人はおかしい、面白い。下手でよかった。呵々。
 蓋(けだ)し、チャイナには昨今、歌よみ上手の多かりしか。それはなかろう、やまとうたのこちらと違い、かの地は、漢詩、漢文のお国だもの。
 このたびの岩手・宮城内陸地震の犠牲者の方々と併せて、心より 南無合掌。

次回は、南風病院脳神経外科主任部長の楠元和博先生のご執筆です。(編集委員会)




このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009