私の心の郷里は種子島にある。幼い頃から毎年、盆、正月には祖父母への挨拶に渡島するものだった。その頃は鹿児島商船の橘丸と九州商船の八重嶽丸何れも400トンに足りない小型船。それでもその頃は他の船から見れば大型に見えていた。

私の家は西千石町の山下小学校の一角にあった。静かな街で約2キロ離れた築港のポンポン船のエンジンの音が聞こえていた。今夜は種子島行きが「出航するぞ」という日の夕方はボーッ、ボーッと汽笛を鳴らして合図していた。それがハッキリ聞こえていたのを今でも懐かしく思い出す。それほど静かな街だった。出航は大体週2回、2社がお互いに出港していた。準備して県庁下の第一桟橋に行く。港は厚い鉄板と太い鉄の鎖に繋がれた浮き桟橋になっており、それに船は横付けになっていた。桟橋が波に揺られてギーッ、ギーッと軋むのは心に沁みる音だった。
定刻大体9時だったと思う。ボーッという出航の汽笛を鳴らして船は夜の港を出る。舳先で波を割り込んで走る時、蛍の様な侘しい夜光虫の波がキラキラ光りながら艫(とも)に流れて消えてゆく。それに夜空の満天の星も実に綺麗で夢見るような光景だった。船室に入るのも忘れて見とれていた。夜光虫も星空も今の錦江湾にはとても見られない、良い思い出だ。
程よい興奮を味わって船室に入る。その頃我々の船室は船底だった。丁度舳先の部分だったので頭の近くでザブンザブンと波を掻き分けているのが直接じかに伝わる。何時の間にか寝てしまった。
それでも時に寝付かれない時がある。上の甲板には牛や馬が繋がれていた。連中がシャカシャカと音をたてて小便をする。ペタンペタンとうんこをする。時にはカタン、カタンと足踏みをする、ザブン、ザブンと波の音はする、なかなか眠れなかった。昔は牛馬が甲板で我々は船底だったのだった。
船が佐多岬の沖に掛かると数段と船の揺れがひどくなる@。それによって今、佐多を廻るところだなと外は見えなくても分かっていた。何時間かすると次第に揺れは収まってくる。もう馬毛島の蔭に入ったな、もう直ぐ西之表だと喜んでいたA。大体朝の4〜5時ごろ、未だ世間は真っ暗という時間に9時間の旅を終えて赤生木の港(西之表)Bに入る。今見ると意外なほど小さく狭い港だ。ボーッと着港の汽笛が鳴ると、暗い岸壁に揺らいでいる提灯の灯りが艀(はしけ)に乗ってギーッコ、ギーッコと漕ぎ寄せて来る。今から考えるとあんなに小さな港でも接岸できなくて艀が迎えに来て闇の中に乗り移って岸に漕いで行ってやっと上陸したものだ。「メッカリモーサン、オジャリモーセ、ジュンサンニョー、〇〇バキー」(お目にかかりません、いらっしゃいませ、潤さんですね、○○叔母さん)等の優雅な声が飛び交う。今頃純粋の種子島言葉は聞かれるだろうか?
一応挨拶が済むと迎えに来ていた荷馬車または馬に乗って急な坂を越えて行くものだった。その頃は夜もスッカリ明けて周囲の森や畑に飛ぶ小鳥の鳴き声を愉しみながら田舎道を馬に揺られて行った。道路を次々に前へ前へと飛んでは振り返る「ミチオシエ(ハンミョウ・甲虫類)」という美しい小虫のことは80年経った今日でも昨日の様に思い出す。
順調に行った時は良いが風と波次第では折角出航しても山川港に立ち寄って或る時間、風待ちをすることもあったC。逆に種子島を出る時は西之表の親戚の家に泊まって船が来るのを待っていた。何時まで待っても来ないので仕方なく又一旦引き揚げた途端に部落唯一の郵便局の電話に「船が来た」との連絡あり、急いで二里の道を引き返し、峠に掛かって見ると既に船は出港して行くのが遠くに見える。電話が部落の郵便局に一つしか無い時代だったので止むを得なかった。仕方なく家迄引き返して又1〜2週間の船待ちを余儀なくされた。現在ではとても考えられない現象だった。特に台風の時期は前触れから余波まで大体2週間位の欠航がざらで本当にひどい目にあった。然し時に昼間の航海に当たった時は船端ふなばたをスイスイと100mぐらい飛ぶ飛魚や船の脇を伴走するイルカの大群を見たり開聞岳の勇姿を眺めたりD、佐多岬の灯台Eの美しさに感動したり本当に優雅なものだった。
現在船はフェリーなら一万トンで約3時間、トッピーだったら40分、港は凄く広くなったし、携帯電話で何処からでも連絡はつく、まるで夢みたいだ。種子島も内地並みに便利になったものだ。有り難い世の中だ。然し私は戦後帰っていない。あの上品な優しい種子島言葉も聞いていない。時には淋しく思う。故郷はやはり近い様で遠いものだ。

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