塔路の海岸を8月10日に離れて、日本列島に副って日本海を南下した。概ね晴天が続いていたが、2回程暴風雨がやって来た。そんな日はじっとベッドに寝ていた。晴れた日は左側に日本列島が薄紫色にかすんで見えた。太平洋はアメリカの潜水艦が多くて危ないので、日本海を通るのだと船長さんが言われた。目的地は佐賀県の唐津市だったが、途中無電が入り大阪市に変更になった。夕暮れの瀬戸内海を眺めながら夜大阪港へ着いた。船で夕食をすませ港近くの宿へ泊った。「明日、朝迎えに来るから。」と船長さんが言われ船へ帰って行かれた。翌朝8時船長さんが見えた。「幾々変更してすまんがやっぱり唐津港へ下ろせ、と言う無電が入ったので、唐津へもどらなければならん。」と言われた。後半日、船に乗れるので私達はむしろ喜んだ。
夕方船は出港した。ぐっすり寝てしまったようで、目が覚めると外は明るかった。8月19日だ。17日に此の辺りを台風が襲ったそうで漁船が何隻も沈んでいた。朝食後、船長さんが唐津駅まで送って下さった。人吉までの切符を買ってもらい、荷物は後で家に届く様に送るからと言って下さった。10日間の生活だったが名残り惜しかった。
8月末日か9月初日、これから下宿でお世話になる伯母(母の姉)に連れられて転入届けを出すため元の学校へ行った。幸い従兄も私も元のクラスへ入れられた。人間は殆ど変わっていなかった。転勤族の2人が転出して居なくなっていただけだ。担任は吉沢先生という男の先生で、この4月養子入りをされたそうだ。もう何年間か本校におられるそうだが、高等科の担任が長く、私は殆ど顔を見たことがなかった。服はカーキ色の軍服に似た形で詰め襟であった。顔はロダンの「考える人」の容貌に似ていた。この先生の学級経営は他の先生と少し違うところがあった。級長・副級長は他のクラスと同じく、クラス全員の投票で学期毎に決まった。然しクラスを統率していくのが「練成長」であった。練成長はどうやって決まるかといえば、月末、その月に習った学習のうち国語、算数、歴史、地理、理科の五教科のテストがあり、その総合点で一番から五十五番までの順位がつく。一番が土曜日の練成長、二番が金曜日、…六番が月曜日の練成長である。その日の練成長が、挨拶の号令、体育時間の号令、昼休み後の見廻りなどすべてを行い、担任へ報告する。
10月の中旬だったか、私達12名は中庭の掃除係で、大体終わった頃、練成長が点呼に来る。その日は遠山君だった。私の右隣に並ぶ「地下(ジゲ)」君が、「西橋君、お面白か事ばやってみよう。班長が番号と言った時、西橋君は「8」を言わないで、俺がすぐ「9」と言うから、早よう言えば分からんと思うでやってみるが。」と言う。
「うん、やってみよう。」と私は言った。練成長の遠山君が、副練成長とやって来た。我々は班長に右へ立ってもらい左横一列に並んだ。班長が「番号」と号令をかけた。班長が(1)で次が(2)(3)……と進んでくる。(7)が言われた。(8)の私は黙っている。地下君がすぐ(9)という。(12)で終わる。「総員12名、欠席者なし」と班長が言う。ところが遠山君は「良し」と言わない。「もとい」と言った。班長は再び「番号」という。私と地下君は同じ事をやった。練成長の遠山君は「こりゃだめだ」と言って他へ移って行った。我々は手足を洗って二階の教室へ上がった。先生は机を陽当りの良い廊下に出して仕事をしておられた。私の顔を見ると「西橋一寸と来い」と言われた。言われる事は分かっていた。「君は掃除の報告の時、番号を言わなかったそうだな。君は中学受験の為人吉へ帰って来たんだろう。そんな事じゃ駄目じゃないか。」と言われた。(私達はジョークでやったんですよ。地下君を呼んでもらえば分かりますよ。どうして遠山君の言う事だけを聞くのですか。先生はジョークの分からぬ人ですね。)と心の中で言っていた。その位の子供のジョークが分からぬようじゃ、いい先生にはなれませんよと言ってやりたかった。
10月の末だったか、先生は1時間目の授業にやって来られ教壇に上がると、「瞑想」と叫ばれた。今まで何度聞いた言葉だろう。私達は目を閉じ、背筋を伸ばし、拳を脚にのせた。「瞑想」がかかった場合、殆どいい話は出ない。今日はどんな文句が出るのだろうと、知らぬが仏で、ゆったりした気分でいると、「西橋立て。」といきなり言われた。(何か悪い事したかな?)と考えていると、「お前は中学校の先生の奥さんに挨拶をしないそうだな!」と言われた。(中学校の先生の奥さん?そんな女性何処に住んでるんだろう)と考えているうちに、あの女性たちだろうかと思いついた。伯母の家は、中学校のグランドの端にあって、グランドと広い畑に挟まれた細い道を100m程南向きに歩くと広い道にでる。その左角に12〜3軒の家がある。私が学校に行く8時頃、7〜8人のおばさんが細い道に円を為してしゃべっている。あの女性達がいわゆる奥さんなのだな。私は「通して下さい。」とも言えず、隅の方を小さくなって通った。稀には午後立ってしゃべっている事もあるので、その時は遠回りをして畑の中をつっ切って家へ帰った。誰が私の担任に話したかはすぐ想像がついた。1組の男子組の先生が、その集団の家の一軒に住んでおられたので、そこから伝わったと考えられる。その先生は剣道をしておられるようで、教室では竹刀をもち歩き、時々ピシリという音が私の教室まで響いた。
私は瞑想中思っていた(貴方は本当の先生ではありませんね。人の痛いところを皆の前でつつくとは立派な先生がする事ではありません。こんな時はこっそり一人呼んで、人のいない所で教えるべきではありませんか。私は貴方を恩師とは呼びません。)
11月初め私の隣に座っている吹上君が教壇に呼び出され「お前は他家の柿を2個盗んだそうだな。何という汚い事をするのか。」と言うと、足払いで教壇の上に叩きつけられた。昭和17年の終り頃になると益々物質不足で、育ち盛りの者はいつも腹をへらしていた。柿の2個位見逃してやってもよいではないかと思った。叩きつけなくても言って聞かせれば分かることだ。
或る日、級友の一人と運動場を歩いていると、級友が「馬が通りよる。」と右の方を向いた。そこは渡り廊下で、吉沢先生が歩いていた。「あん先生は“うま”と言うとな。」「うん渾名たい、あん先生の面つらを前から見ると平べったく横から見れば首の長うて本当に馬面づらたい。」と彼は言った。小学生は、先生に渾名を付ける智恵も興味もないだろうから、高等科生が付けたんだろうと私は思った。その後、小学生が先生の渾名を言うのを聞かなかったし、私自身も使った事はなかった。唯、面前で私を嬲り者にするような先生は許せない。卒業してからはお礼の一本も書かないぞと決めていた。卒業式の翌日、伯母が私をつれて先生の家へお礼に行った。15分程の道程であった。廻りは広い田圃で、その中に一軒広い屋敷があった。その頃はもう殆どの物が無く、伯母は図書券をお礼に持っていった。
その2日後位に入試の発表があった。私の下宿から白い紙が教室の窓に張られるのが見えた。私も行って確かめることにした。正門近くの窓に張ってある。5組に分けて張ってある。1組から見ようと思ったら一番先の方だ。そこまで行って1組を見た。「ない。」2組、3組、4組を見て来た。「ない。」心臓がドキドキ鳴り出した。5組へ移った。「ない。」真ん中附近へ来て、やっと「あった」傍にいた級友と「よかった。よかった。先生に報告に行こう。」と小学校へ向かった。先生は教室で待っておられた。別に3人位合格報告に来ていた。私のクラスからは35人受けて、30人の合格であったそうだ。(つづく)

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