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写真 1
「鹿児島市史(開港由来)」より掲載(大正8年)
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写真 2
「鹿児島港案内」より掲載(大正7年)
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写真 3
「桜島町郷土史」より掲載(昭和35年)
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80年程前、鹿児島港には二つの浮き桟橋があった。
大型の方は小川町、滑川口の近くにあり種子島通いの船の発着に使われ第一桟橋と呼んでいた。(写真1)その南側の魚市場に近い方に一回り小型の同じ浮き桟橋がありこちらは第二桟橋と言って桜島航路専用だった。(写真2)波の上下、潮の満ち干によって上下する、波に揺られてギーッ、ギーッと軋む音がして桟橋の渕にはスカートの襞の様な緑の海苔がユラユラと揺れて大小の魚が群れていた。時には「さより」の大群がサーッ、サーッとまるで夕立のように通り過ぎてゆくのだった。「さより」は姿が「鱚」か「鮎」に似て美しく刺身にして非常に旨いので今でも私は寿司屋に行ったときは好んで注文し美しい遊泳姿を思い浮かべている。
その頃は港の中まで「イルカ」の群れが来て時には撥ねたりして行くものだった。今頃居るのだろうか。桟橋の周囲の海は非常に奇麗で底の砂利が宝石の様に見えていた。あの辺りの水深が大体7mだったからその透明度は見事な物だった。思い出しついでに記すと、私は中学校時代、桟橋から三五郎波止場の間に並んでいた貨物輸送用の団平船を漕いで遊んだ時代があった。あの大きな船を自由に漕ぐのは面白かった。飽きたときは綺麗な海に飛び込んでも気持ちのよいもので、波止場を往復した懐かしい思い出だ。
四国の四万十川の清流が全国的に有名だが先日観光で行ったところ、8〜10mの深さの川底が誠に奇麗に澄んでいて川底の砂利がそのまま見えていた。私は60年前の錦江湾がこんなだったのにとつくづく羨ましく感じると同時にこの透明度を少しでも長続きさせたいものだと心から願うことだった。
桜島に通うには当時所謂ポンポン船という焼き玉エンジンの小型船がいて出発の10分位前になるとバーナーに火をつけるゴーッという音がしてサッカーボール位の大きさの球が焼けて赤くなる。そろそろ出るぞーと10人前後の客が乗り込むものだった。ポンポン船は構造が簡単で使い易く高度な精密技術が要らないので戦時中にも一部の輸送船に使われていたそうだ。それが1日何回往復していただろうか。実に長閑な風景だった。港外に出て錦江湾に浮かぶ帆掛け舟を眺めながら約50分位で袴腰に到着していた。
袴腰の海岸はまさに白砂青松で、今みたいに桟橋やコンクリートの護岸等は無く素肌の海辺だった。船が乗り上げんばかりに海岸に着くとそのスクリューで海底の白い砂を巻き上げ一時海が乳白色に見える。これがまた見事だった。(写真3)現在の船着場の右側に見える月読神社の赤い社、釣り場の土手のあたりには見事な珊瑚礁があり、ウミトサカとか赤や緑の熱帯魚が手に取るように見られ竜宮城を思わせていた。当時(昭和33年)あそこにはグラスボートが出ていた。当時海底見物用のグラスボートは非常に珍しく沼津に次いで日本で二番目と言われていた。この遊覧船は雨の日はプランクトンが増えて透明度が落ちるし冬は寒い。荒天の日は船が出せない等で採算が合わなくなり余り長く続かなかったようだ。
私は種子島航路の船に乗る機会が多かったが夜になると船の舳先に散る波に蛍みたいな夜光虫がキラキラと光って流れて消えていくのが非常に奇麗だった。最近海の水が濁って夜光虫が見られなくなった。
又当時の満天の星空はとても鹿児島では見られない。私は最近、徳之島の海岸に寝そべって眺めた星空に昔の鹿児島を偲んだ。小学校時代の教科書に物干し台から箒を出して星を集めるとかあれは雨の降る穴だという小話があったがその頃私の家(今の山下小学校)でも本当に手を出せば届く位に星が近かったのを思い出す。数年前烏帽子岳から鹿児島の空を見たとき大きなレンズ状の雲が掛かって街のネオンで灰色に浮いていた、車の排気ガス、その他のスモッグだ。あの下に我々は住んでいるのだと思えば身の毛のよだつ思いがした。丁度昭和30年代の高度成長期に羽田空港から飛行機が飛び出すと暫く真っ黒なスモッグの層を抜けてそれを見下ろしながら明るい空に出ていた。私はその時、東京の都民はこの煤の下に住んでいるのだ、気の毒にと思った。そして東京には住みたくないと感じた。
話を海に戻すと長島の蔵の元港も40年ぐらい前は海の底が奇麗に見えるぐらい透明だったが10年ぐらい前に行った時はもう大分濁っていた。現在はなお酷いだろうと思う。こうして透明度の高い港が次々に汚れていくのは残念だ。人が増え文化が進むのは良いけれども地球温暖化に代表される環境の汚染は見過ごされないものがある。私は10年ぐらい前からスイス、ニュージーランド、カナダの氷河を見て来たがその頃既に氷河の融解が相当進んでいるのを見てその頃から地球はこれでよいのか世界各国の人は心配しないのだろうかと思うものだった。今頃になって世界中が慌てているようだ。鹿児島の海も空も汚染されつつあり、あの奇麗な夜光虫も光らないし満天の星も見られなくなった。錦江湾の透明度が後退していくので空恐ろしいものを感ずる。錦江湾の沖に出て鹿児島の街を見た時、かつては緑に覆われていた城山や武岡、紫原が一面ぎっしりと住宅街になって自然の緑が消えている。これだけ自然が消え人口が増えると錦江湾も汚れる筈だと納得せざるを得ない。

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