謹んで新春のお喜びを申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。
年末年始には忘年会や新年会などで「声」を使う機会が多かった方が少なからずいらっしゃることでしょう。
普段私たちは「声」で話すことが当たり前と思っていて、一般に職業歌手でもない限り、「声」そのものについて考える機会は少ないものです。昨年12月に、情報番組で民主党党首の小沢一郎さんが昭和44年の衆院選初当選のころ、甲状腺癌を患い、声が出なくなったために政界の引退を考えたということを話し、話題になりました。政治理念や政策案などいくら持っていたとしても「声が出ない」ために政界を引退しなければならないということに疑問を持つ視聴者もいたのではないでしょうか?世の中には、声が出ない方は案外たくさんいらっしゃるのです。喉頭の切除など器質的な障害によって声が出ない場合は筆談で質問したり、答弁するのは何もおかしなことではなく、声が出ないから議員を辞めることのほうがおかしいのではないかと思うのですが、実際には声が出ないと議会での質問に制限が生じるようです。
数年前に咽頭癌で声帯を切除し音声障害の岐阜県中津川市の市議会議員が、議会での代読発言の許可を求めていましたが、中津川市議会はパソコンによる発言のみを許可し、代読発言は認めませんでした。その議員は弁護士会に人権救済の申し立てをし、岐阜県弁護士会は全会一致で「議会事務局職員による代読での発言」を認めるように市議会議長に勧告をしたそうです。その結果、委員会での代読は認められたものの、本会議での一般質問は認められませんでした。
声が出なければ、意見を言うことができない、筆談による代読も許可されない。明確に意思が伝わる手段が皆無であれば、大事な市政を担うことは困難と判断することはやむをえないでしょうが、意思の伝達方法が確実にあるのにそれが許可されない。代読ではなく、パソコンに事前に入力し音声化するのであればよいとのこと。入力したものを音声化すればよいのであれば、その議員がパソコン入力を練習すればいいのではないかとも思うのですが、実際のところ60歳以上の方に字を書くのと変わらない速さで入力できる様になれというのも無理な話なのかもしれません。リアルタイムで入力しパソコンで音声化するのであれば、そのまま本人の発言といってもよいのでしょうが、パソコンで音声化することと、代読者に読んでもらうことの間にどれだけの違いがあるのか私にはよくわかりません。しかも仮に代読者が異なる内容をさしはさんだとしても誤りは指摘できる方であるのに代読が許されないというのはどういうことでしょう?その議員は、不明瞭ながらもやむなく食道発声で質問を行い、意味不明な発言として却下されかけたというのです。
このように音声言語(声)にこだわっている割には、日本では有力な政治家はいわゆるだみ声であるという印象が強く、良質な声へのこだわりはどちらかというと希薄なようです。粗性や努力性といった声の聴覚印象的評価上は異常性が高い場合が少なくありません。
音声障害は様々な疾患によって生じ、食道発声など他の音源を必要とする場合もあれば、ポリープや麻痺などの存在により音源は確保できていても声帯振動に異常が生じて声質が低下し、発話が不明瞭となる場合もあります。そのため、言語聴覚療法では、発声効率や基本周波数の測定など音声の問題を調べることも求められます。しかし十数年前には少なくとも音声を見るためには50万〜100万の機器を使わねばならず、弱小STの臨床の場にはほとんどそのような機器は普及していませんでした。
しかし今は、音声分析のフリーソフトが複数手に入る時代となりました。この十数年でこれだけ状況は変わっているのですから、パソコンを使用する人としない人の間で情報量に差が生じるのは勿論のことですが、機器やソフトを持っているか持っていないかの問題ではなく、使えるか使えないか、解釈できるかできないかといった、使う人間の側の問題が問われるようになってきました。「道具がないからできない」という言い訳もできなくなりましたが、本来それが当たり前のことでしょう。
前出の議会と議員の齟齬には、他にもいろいろな背景があるのでしょうが、コミュニケーションツールをどちらにするか、といったあくまでも二次的な問題にからめとられ、本論には入れないことの奇妙さ、もどかしさを感じさせる出来事でした。

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