=== 新春随筆 ===

ド ラ キ ュ ラ 伝 説 の モ デ ル

西区・伊敷支部
(植村病院)

     吉村  望
 10月初旬、大学を同時期に定年退官した友人達と初めてルーマニアに立ち寄り、ツアーの大きな目玉の一つでもあったブラショフ近郊のブラン城(通称ドラキュラ城)を訪れた。
写真 1 ドラキュラこと、ヴラド公爵
ドラキュラと言えば、処女の生き血を好む吸血鬼として、小説に登場するキャストの名前であるが、実はそのモデルがルーマニアに実在した人物であり、15世紀のルーマニア、ワラキア公国のヴラド・テペシュ公爵であったといわれている。恥を晒すようであるが、私は今回この地を旅行するまでは、ルーマニアという国はドナウ河が黒海に注ぐ東岸に位置しており、その対岸(西岸)にはブルガリア、西北にはセルビア、ハンガリーと国境を接しているという地理的な位置関係についても、そして、かつてはこれらの国々のほとんどが、オスマントルコ帝国との激しい攻防を繰り返していたという、歴史的な背景についても正確な知識を持っていなかったのである。ルーマニアはチャウシェスク政権崩壊後、社会主義から脱却して、2007年4月からEUに加盟したばかりであり、私にとってこれまで訪れたことのない処女地であった。
 ルーマニアはワラキア、モルドヴァ、トランシルヴァニアの三つの地域から成っているが、いずれもルーマニア人が多数を占めている。歴史的にはこの地はローマ帝国の支配下にあって、民族としてはかつての東欧の共産圏の中では唯一のラテン系に属していた。3世紀後半には異民族の侵入によってローマ帝国の支配が崩壊した。やがて9世紀末にマジャール人が侵入して、現在のハンガリーとトランシルヴァニアに定住したので、トランシルヴァニアはハンガリー人の支配下におかれることになった。しかし、14世紀前半にワラキア公国、そして後半にはモルドヴァ公国が念願の独立を果たす。しかし、ルーマニア人にとってはこれまで敵対してきたハンガリーより、もっと恐るべき敵、それは南からやってきた強大なオスマントルコ帝国であった。オスマントルコは14世紀後半にバルカン半島の大半を占領し、1370年ワラキアへの侵略を開始したが、ワラキアはドナウ河によって一旦よくこれを防いだ。しかし、結局1394年オスマン帝国に屈服する。その後、ハンガリーの支援を受けてワラキア公がオスマン勢力を追い払い、その功績により貰った勲章に竜(Dracoラテン語で竜、悪魔の意)が描かれていたので、ヴラド・ドラクル(Vlad Dracul)と呼ばれるようになる。その頃、竜、ドラゴンは想像もできない怪奇なものとして恐れられていた。“吸血鬼ドラキュラ”のモデルになったヴラド・テペシュ(Vlad Tepes)はドラクルの次男である。ちなみにTepesはルーマニア語でteapaは長い木の棒の意味であり、後に希代の残虐行為によって“串刺し公”といわれるようになる。ヴラド・ドラクルはハンガリー、オスマントルコという2大強国に挟まれて最初は異教徒(トルコ)と闘うキリスト教徒君主“ドラゴン騎士団”に属すが、その後オスマン側に寝返ったり、弱小国の悲哀を味わっている間にヴァルナの戦でトルコ軍に敗れた後、長男と反目しお互いに殺されてしまうのである。

写真 2 ドラキュラ城遠景

写真 3 城の側面

写真 4 松下先生と筆者
写真 5 城の内側

 さて、ヴラド・テペシュはオスマントルコに人質として父親から置きざりにされていたのであるが、父の死後オスマンの支援によって一旦ワラキアへ戻るが、僅か2カ月後にはハンガリー勢力に追い出されモルドヴァに亡命してしまう。その後彼は今度はハンガリーの庇護を受け、ようやくワラキアの領主となって帰国を果たす。彼が“串刺し公”と呼ばれるに至る所以は、ワラキアでは地主貴族の権力によって、ないがしろにされてきた公権確立の狙いが大きいと考えられる。すなわち、まず手始めに貴族500人を集めて、“ワラキアが弱体化したのはお前達の責任だ”と全員を串刺しにしたり、微罪であっても犯罪者への仮借なき刑罰(斬首、串刺し、釜茹)を徹底したことなどによろう。しかし、内政面では厳罰主義による治安回復についで、これまでの貴族の軍隊の他に一般農民を組織した公室直属軍を立ち上げたり、関所を撤廃して国内の流通をはかるなどの改革を進めた。そして、彼が全ヨーロッパに名声を馳せたのは、1461年の十数万というオスマンの大軍との戦いの時であった。女性子供を山中に避難させて、ゲリラ戦や夜襲によって大いにオスマン軍を苦しめた。この時、敵軍の進撃路に串刺しにした捕虜を林のように並べ立てて、トルコ兵の度肝を抜き彼等の士気を削ぐことに大いに成功した。史実によれば、2万人のトルコ、ブルガリア兵が杭に刺されて惨殺され、やがてオスマンの大軍は退却してしまったと伝えられている。
 今回、ブラン城を案内してくれた地元ガイドの説明によると、ヴラド・テペシュの戦略の発想は、非常に残酷ではあるがとてもユニークであった。寡兵よく圧倒的な大軍を打ち破るために情報が如何に重要かということの一例として感じた。

写真 6 中庭と井戸、仲間達
写真 7 内部の居室
写真 8 関所跡

 ヴラド・テペシュは、人質としてトルコに10年余過ごしている間に、トルコ人の気質、習慣、宗教観などについてつぶさに熟知していた。たとえば、彼等は死後の世界を信じており、天国では男達は美女を7名まで持ち幸せな生活を送ることができる。ところが、ヴラドによって串刺しにされた捕虜達は、まず両目を抉り取られ、右腕を切り落され、睾丸を抜き取られたままで死後の世界へと旅立たされている。これでは、たとえ天国へ行っても美しい女性を見ることが出来ないし、イスラムでは不浄の手とされる左手しか使えないし、さらに子供も作れない。死後の世界は極めて悲惨なものになってしまう。そこで、彼等は指揮官に向かって“ワラキア以外なら何処へでも喜んで戦争に行きやすが、どうかワラキアへだけは行かせねえで下せえ”と哀願したという。かくして、ヴラドは十字軍でもってしても歯が立たなかった全盛期のオスマントルコの大軍をドナウの彼方へと退却させたのである。しかし、その後のヴラドの運命は決して平坦ではなかった。まもなくオスマンと手を結んだ弟の反乱によりハンガリーに亡命したヴラドは12年にわたって軟禁されることとなる。やがて許されてハンガリーの支援の下に3度目のワラキア公として帰還する。しかし、それも束の間オスマン軍との乱戦の中で数奇な波乱万丈の生涯を終えることになる。ところで、何故ヴラド・テペシュが“吸血鬼ドラキュラ”のモデルになったのか?
 最初にドラキュラの物語が書かれたのはヴラド本人存命中にドイツ語やロシア語で、残酷なドラキュラ像が描かれている。その背景には事実に基づくものの他に多分に政治的、社会的な要因があったと考えられる。列強に囲まれた小国の君主として、独立の気概を持ち続けたヴラドを中傷しようとする、ハンガリーなど周辺諸国による流布ともいわれる所以であろう。歴史上の人物の評価には長い時間のスパンと多面的な考察が必要であろう。因みにヴラド・テペシュが吸血鬼であったという伝説は何処にも見当たらない。ただ、吸血鬼伝説の主人公にされるという、彼にとっては甚だ不本意であるかも知れない名声(?)によって、彼は現在もなお祖国ルーマニアの観光の目玉となって生き続けているのである。
 ところで、実際に我々が訪れたドラキュラ城(ブラン城)はヴラド・テペシュの祖父が築城したものとされており、今にも“吸血鬼ドラキュラ”が現れそうな不気味な面影は残念ながら(?)みじんも見当たらなかった。この城をこよなく愛した庶民的で優しいマリア女王の遺品が沢山展示されていた。
 最後に、ドラキュラ城で詠んだ句を一つ:
 “ドラキュラ城 聞くと見るでは 大違い”




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