=== 新春随筆 ===

ひ  ま  わ  り

鹿児島県医師会理事

     田畑傳次郎
 9月1日になり、ひまわりの絵が載った8月のページを外しほっとした。ひまわりの花には悪いのだが我が家ではある理由からひまわりの載った写真、絵それに植栽までもがタブーなのである。気に入って飾っていたカレンダーを8月になりめくって初めて図柄がひまわりであると気付いた。一寸たじろいだが、気を取り直し、1ヶ月位は良いかと自分に言い聞かせて見てみぬ振りを決め込んだ。しかしカレンダーが目に付くとどうしてもいけない事をしているようで気が引けた。兄、姉、私の3人兄弟は母に小さい頃から悲しいひまわりにまつわる話を聞かされて育った。殊に私は生まれてこのかた母と離れる事無く一緒に暮らし、結婚してからも同居である。そのような理由から妻は勿論子供達までもがその事を良く知っている。そしてなるべくひまわりに関係する事柄は母の周りから遠ざけるようにして来た。その母も今は物忘れが酷くなり自宅と庭続きのグループホームでスタッフに囲まれながら過ごしている。それでも庭にはひまわりは植えないようにしている。そして母の居ない自宅にもひまわりに関係した物は置いていない。悲しい話とは60数年も前の事で母は結婚して暫くはささやかながら鹿児島で幸せな新婚生活を送った。そのうち時代の流れの影響で大陸に憧れる父の情熱に負けて反対ながらも満州の奉天に移住した。その時期の満州は活気に満ち、裕福で穏やかな生活が待っていた。そして初めての女の子が生まれた。利発な子で健やかに育ち将来の期待も大きかった。ところが3歳になった夏のお祭の夜に大好きなおはぎをお腹1杯食べた。ところが夜中になり、お腹を痛がり出し、吐いたり下したり大変な事態となった。近くの医院で診て貰い疫痢と診断され薬を処方してもらった。疫痢は点滴とてない当時としては非常に恐れられていた。どうしようもなかった。その翌日の暑い日、意識の無いまま息を引き取った。悲しみの家の前庭にはその年に限って沢山のひまわりが咲いていた。母が意を決して海峡を渡り満州に移住してからの初めての帰郷はいとしい子供の亡骸を故郷に納めるためであった。郷里の指宿で長女の野辺送りをすませた父母は再び奉天に戻った。エンジニアの父は満蒙開拓団の為の農機具を製作する工場を経営していた。中国人の従業員も多く中国社会にすっかり溶け込んでいた。子煩悩な父は一男一女をもうけかわいがった。それもつかの間、平穏な日は続かなかった。日本は太平洋戦争に突入、敗戦の気運の漂う昭和20年6月に父は39歳で一兵卒として現地応召された。そして8月13日についにソ連軍が国境の牡丹江に侵攻しその戦闘で亡くなった。それまで中国の隣人に慕われて過ごしてきた父の居ない家族の生活は一変した。母は兄、姉に生まれたばかりの私を抱えてソ連兵に追われるようにして日本にやっとの事で帰還した。日本中がそうであったが戦後の生活は悲惨なものであった。そんな生活の中でも母は亡くした長女と過ごした豊かで幸せな日々を胸に仕舞って、挫けてしまわない様にまた悲しい出来事を思い出さないようにあの日庭に咲いていたひまわりを頑なに避けてきた。私は小豆が好物なのだが母は小豆で作ったおこわやおはぎを食べ過ぎないように決まって注意した。そんな気持ちを私の子供達も慮ってひまわりを避けてきた。すでに母と居る時間の長くなった妻はむしろ私よりも詳しく満州での事柄を詳細に聞かされている。そして私も初めて聞くような話も知っていて苦労した母を労わってくれる。





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