=== 新春随筆 ===
介 護 福 祉 の 魅 力
〜 何が私を介護福祉にひきつけたか 〜 |
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はじめに 介護福祉との出会い
私と介護福祉との出会いは、偶然といえば偶然のことである。大学では植物生理学を学び、南蛮キセルを素材にカルス栽培の研究をし、大学院での更なる研究を目指して学んでいたのだが、学生時代に母・父を亡くした私は一転、それまで同人として打ち込んでいた文学に人生をささげようと、とりあえずの生活費を稼ぐ目的でアルバイト的に職を求めたのが始まりであった。
鹿児島市の郊外にある、風光明媚な犬迫町の特別養護老人ホームへの入職が私と介護福祉との初めての出会いだった。いや、福祉そのものとの出会いだった。
昭和51年6月に採用された私は、9月から6ヶ月間社会福祉主事講習会へ参加させていただいた。アルバイト的な軽い感覚で入った私は、社会福祉についてまったくの無知無学であり、文学の片手間に出来るものではなかった。利用者に対して失礼であるということに気付かされた。文学の一時休止である。ただし、まとまった長い時間を必要とする小説という世界からは遠のいたが、施設利用者とのかかわりの中で、句作に取り組みながら今日に至っている。
特養で19年間、介護福祉士養成校で2年間教鞭をとった後、老健施設で2年間、視覚障害者養護老人ホームで2年間、施設・地域福祉に携わった後、現在の鹿児島国際大学福祉社会学部で教鞭をとって7年になる。こうして今日私があるのも、三十数年前の特養の施設長・理事長のご配慮のおかげであり、感謝の気持ちは言葉に言い表せないものがある。このとき初めて社会福祉について学んだ私は、それから5年間は必死で介護福祉の実践に取り組んだものである。
湯の里の湯煙の中柿一つ(やすひら)
1.介護福祉に対する揺れ動く心
しかし、この頃になると、私は老人介護に限界を感じるようになった。寝たきりで入所してこられる方に対して、マンツーマンでリハビリに取り組み、何とか車椅子の自操ができるようになり、独力での生活の幅が広がったと喜んだそばから脳卒中の再発作で入院、もしくは亡くなってしまう。それまでの努力がすべて死で無に帰してしまう。果たして、男子一生の仕事として取り組む価値がそこにあるのだろうか。
昭和の50年代当時、福祉を専門に学んだ人で老人福祉に積極的に係わるものは少なかった。その理由がここにあったのかもしれない。つまり、どれほど濃密に利用者と係わろうとも、すべては「死」という事実で無に帰してしまう。専門家である自分が係わってきた軌跡は何も残らない。今日こそ辞めよう、明日こそ辞めよう。当時の私はそんな虚無感に捕われていたのである。
物言わぬスミレに心たすけられ(やすひら)
2.私を介護福祉に引き止めた出来事
悶々と毎日を過ごしていたある日、「今日も生きていたか」という老人の声を聞いた。この日は早出勤務で、洗面介助等を行っていたときのことである。「生きている」ということは私たちにとって当たり前であり、ことさら「今日も」という言葉をつける必要はないのだが、「今日も」という言葉に強い違和感を覚えた私はその老人に聞いてみた。
「『今日も生きていたか』とはどういうことですか?」と。すると、
「私たちは、夜寝るとき、明日は眼が覚めないのではないかと思いながら寝るんです」という返事であった。この言葉は、贅沢な悩みに悶々としていた私に猛省を促した。
「介護福祉の本質とは、何らかの結果を形として残すのではなく、真摯に利用者と向き合うことではないのか。明日に不安を抱きながら生活している我々老人に対して、せめて今日という日を満足してもらうこと、それ以上何を期待することがあろうか」そのように言っているように思えた。そして、
「そうか、介護福祉サービスを必要とする老人にとって、今日という一日は単なる24時間ではなく、私たちの1週間、1ヶ月、いや1年以上の重みのある1日なんだ。その1日を、私が係わることで利用者の皆さんが充実した1日と感じられるようなサービスを提供できれば、それでよいではないか。
たとえ『死』ですべて無に帰してしまう介護結果ではあったとしても。介護福祉の実践は、第三者に見てもらうためのものではなく、援助者の行為を評価してもらうためのものではないのだから。たとえ自己満足であっても、利用者に喜んでもらえるのならそれでよいではないか」このような考えに至った。これ以降、介護福祉の世界に身をおくことについて思い悩むことはなくなったのである。
流れ星流れるままに流れ来て(やすひら)
3.認知症老人の多様な個性に気付く
ところが、昭和58年2月より施行された老人保健法により、症状は安定していたが家族の引取りがないなどの理由で退院できずにいた老人が施設に入所するようになった。その中に多くの認知症老人がいたのである。
「ゆくさおさいじゃした。私にもお前さーみたいな息子がおってな。先生をしておっと。優しかとよ」
Aさんは認知症が進むにつれ、面会にきた息子が次第に分からなくなり、ついには他人に話すように息子を前にして息子の自慢話をするような子供思いの母親だった。自分に対して他人に話すような母親を直視することに耐えられなくなり、それまで頻回に面会に来ていた息子の足は遠のくようになった。
「何をしちょっとォ?」整理ダンスから衣類を出しては 入れ、入れては出ししていたBさんが聞いてきた。「自分ではご飯が食べられないのでお手伝いしているのです」と応えると、「可哀想に、ボケちょっとか」と言う。このBさん、時には人形に自分の食事を食べさせようとしながら、「ないごてやろかい、この子は食もらんがよォ…」と悲しそうな顔をする状態にありながら、同室の隣の老人の心配をする心優しい人であった。
Cさんは、17時ごろになるとステーションへやってきて、「監督さん、(仕事が)すみましたので帰らせてもらいます」と帰宅の許可をもらいに来る。「いつも有難う、助かります。お疲れのところ申し訳ありませんが、仕事がたまっているもんですから残業していただけないでしょうか」と、ステーションの台を拭いていただこうと台拭きを手渡すと、「まこて忙しかもんじゃ」と不平を言いながらも、ステーションの台・洗面所周辺を丁寧に拭き掃除される親切な人だった。
亡母(はは)の膳 調理(つく)るという老婆(ひと)霜の月(やすひら)
霜の朝 今日六月と言ひし老爺(ひと)
家に帰ると 廊下を行き来(やすひら)
4.企業サービスは医療と福祉(介護)サービスに馴染まない
平等とはすべての人に同じように接することだと思われているが、本当にそうなのか。一般的にはそうかもしれないが、その場合、人はすべての状態が同じにみられているのに気づかなければならない。つまり、人々の心身の状況・状態・機能を考慮しないで同じように接することを平等といっているのである。
しかし、医療と福祉(介護)はそうではない。医療と福祉(介護)はそれぞれの状態・状況・機能にある人々へそれらのことを斟酌した上で働きかけるサービスであり、差異を持って平等とするサービスであるのである。だが、なかなかこのことは人々に受け入れられない。学校における「えこひいき」問題と同じである。
男の子に「こら、静かにしろ!」といい、女の子に「静かにね」といったら子供たちはすぐえこひいきだという。果たしてそうか。大体において、これが平等だとするのが私の考えである。このように、どこを平等にするかで考えが分かれることになる。
叱る相手が男であるか女であるか、普段から騒がしい人なのかそうでないのか、神経質であるかないのかを考慮しないで、叱る内容・状況を同じにする場合と、叱る相手を考慮して叱る内容に差異を設け、教育効果(ストレス)を同じにするのかによって平等の捉え方に違いが生じるのである。これを図式化すると次のようになる。
A=B×C
ここで、Aは叱ることによってもたらされる教育効果ないしはストレスを意味する。Bは叱るという行為(内容・状態)である。Cは叱られる相手、つまり学生を意味する。
Cの状態・状況を考慮しないでBという提供される(ここでは叱る)行為を平等にすると、当然Aに差異が生じることになる。
Cを考慮した上でBという提供される(ここでは叱る)行為に差異を設けると、結果的にAというストレス(教育効果)を平等にしたことになる。
医療と福祉(介護)はサービス利用者の状態がそれぞれ異なるのだから、当然、提供されるサービス内容には違いが生じることになる。医療の場合、病気の内容や患者の心身の状態により治療方法を種々に使い分けることによって治療効果という予後を最良(平等)にしようとするのであり、福祉(介護)の場合は利用者の心身の状況に応じて提供するサービス内容(質・量)に差異を設け、生活の満足度という予後を最良(平等)にしようとするのである。提供するサービスを同じくしようとするのでは決してない。
このように考えると、医療と福祉(介護)は一般的なサービスと同様な薄利多売には馴染まないものであることがわかると思えるが、残念ながら現実社会はクライアントやクランケのことを考慮しない企業的理論をよしとする方向へ向いているようである。
憤る心に一つオジギソウ(やすひら)
さいごに
介護福祉の魅力は、なんといっても直接利用者と係わることにある。つまり、書物を読むのとは異なり、現実に接することで冒険を味わい、多くの人生を追体験することが出来る点に醍醐味がある。
この醍醐味に魅了された私は、気がつけば三十余年もの間、この世界から離れられずにいる。それのみか、今では自分の入る施設を、理想的な介護施設を、地域福祉の拠点となるような福祉施設を何とか創りたいという情熱さえ湧き出てきている。
3Kだとか5Kだとかいわれる介護福祉ではあるが、介護福祉の魅力について、今後とも学生はもとより、社会に対して強く訴えて生きたいと考えている今日この頃である。
かげろひの中に見紛う道標(みちしるべ)(やすひら)
野に伏して病む日の想い風は秋(やすひら)
徒歩ゆかば初めて見るよに時計草(やすひら)

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