古稀の一里塚といった按配で雑文を纏めて早や10年余、私は未だ夢にだに見たこともなく、経験したことのない超高齢世代の端くれに仲間入りした。このところ屈折した喜怒哀楽や複雑な感情の凹凸に、戸惑いと少しばかりの期待が交錯した精神状態が続いている。そこへ「波乱万丈の人生」とか、「事実は小説より奇なり」とかの言葉が私の来歴にオーバーラップしてならぬ按配である。自ら体験した事実、ノンフィクションこそが本物であり、他は想像臆測の域を出ない作り事の領域に過ぎないと耄碌頭が訓えてくれる。ところで、秋の夜長と異常酷暑の名残が疎ましく睡眠が浅いのだろう、夢ばかり。それもとてつもない馬鹿げた幻。最も多く登場するのが履いてきた靴がなくなる場面。脱いだ靴をアッチコッチ探し回ってる最中に眼が覚め、ナンダ夢か、夢でよかったとホッとする。何でだろうこの靴ばかりの夢、不思議でならぬ。明治の両親は順序良く2歳違いの♂♀♀♂♂♂♀♂8人子等を見事に育て上げ、そのど真ん中で揉まれ育った筆者。如何なる遺伝因子を授かったのであろうか。先祖代代、積年の遺産として両親が授けた身体のどこかにDNAが密かに生き続けている筈だ。閑話休題、60年昔にタイムスリップと行こう。…敗戦、復員、祖国荒廃、治安確保目指して警察1年退職追放、挙句昭和22年7月、鹿児島医科大学予科2回生として入学再スタート。回り道の遅咲き青春は瓦礫貧困のどん底、弊衣破帽は勿論、怪しげな物を喰らい、掘っ立て小屋の類に住みながらも志高く、インターンを含めて8年間良くぞ耐え忍んだものぞ。国家試験は常識の範囲と八代のアルバイト先病院から熊本で受験、口頭試問は京大某教授2人による「頭痛について述べよ」、医師免許取得、ブキッチョ恋愛、結婚、診療所開設、3児誕生、連れ合い死去、絶ゆることなき診療続行、3児成長結婚、孫誕生、…闇ヤミ雲クモにつっ走り続けた年月。65歳を皮切りに諸病(前立腺肥大症による急性尿閉、椎間板ヘルニア起因の坐骨神経痛、右外ソケイヘルニア、等)続出するも、何とか乗り越える。喜寿記念の富士山頂制覇も年寄りの冷や水ながら辛うじてパス。翌年、脳梗塞の洗礼を受ける。全く幸いにして急所を外れ、後遺症殆どなく略治。今や逆転の発想で、当年とって28歳、浄土行きはまだか、否、未だ飯食い足らぬ、米寿過ぎたら迎えに来いと使者を追い返そう。再生60周年の回想「そうだその意気」、何だか脳裏に残る昔のフレーズ。以上

昭和22年11月16日 昇格記念運動会にて
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第二医科大学長
大平 得一
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第三医科大学長
町野 碩夫
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初代医科大学長
高安 慎一 |
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| 佐藤 八郎 |
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縄田 千郎名誉教授 |

昭和30年12月 各教授
鹿児島医科大学2回生卒業50周年記念誌より

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