私は生まれながらの鹿児島育ち、80数年鹿児島市電と御付き合いをして来た。市電にまつわる思い出話を綴ってみたい。
市電の歴史は案外古く明治45年鹿児島電気軌道株式会社として出願され、大正9年に認可されているが昭和3年には500万(496万3,775円78銭)にて鹿児島市の所属になった。
まず武之橋から鴨池まで敷設され谷山まで延長、次に鹿児島駅、武駅、そして伊敷線、上町線を延ばし、鴨池動物園、野球場などの施設も揃えて目覚しい発展を遂げた。その頃私は武町に住んでいたので思い出も多い。
私が小さい頃電車を間違えたのに気付いて慌てて電車を飛び降りた。幸いに怪我が無くて済んだが運転手に助けられた思い出がある。その頃電車は運転台は露出され出入り口には鎖が掛かっているだけだった。又その頃電車の前面には金網の救助網があり人を救い上げられるようになって電車に轢かれそうになった人や衝突の予防になっていた。昭和10年ごろには電車が次第に近代化され運転席はドアに囲まれ、救助網も無くなった。
電車の集電装置はポール式で終点や折り返し点に着くと若い助手さんが長いロープを引っ張ってポールの向きを替えるものだった。これが大分重そうでご苦労さんだと思っていたが戦後はパンタグラフになってこちらもホッとした。
鹿児島の電車は特に昭和20年6月の大空襲、及び敗戦後の台風などで残りはたった3台だった。市当局は財政難を乗り越えて東京、大阪などからお下がりを買い集めてきたものだ。その中には散水車もあり巻き上げる路面の埃を静めたり(道路の舗装は全くなく、進駐軍は道路予定地と言っていた)、昭和30年以後の桜島の降灰にも活躍した。降灰の為電車の線路が埋まり脱線したこともある。散水車は昭和末期に廃止された。
おはら祭りや国の奉祝日にはイルミネーションを電車全体に付けたり思い切り派手な飾りを創作した花電車で街を沸かせたりしていた。
電車の料金について記してみよう。昭和の始めは6銭均一の時代が長かった。19年10銭、戦後23年は2円50銭、29年13円、37年15円、40年20円、44年25円、46年30円、50年60円とインフレの状況が分かる。
各路線別に思い出してみよう。
*武町に住んでいた関係で高見橋が木造で床板の隙間から流れる甲突川を見下ろしたこと、川下側に市電の鉄橋があったことは何時か書いた事がある。昭和8年に鉄筋に施工され58年に現在の幅にひろげられた。
*武線の終点は今のダイエーの手前にあり草原にポツンと小屋が立っていた。正式には鉄道院武駅と呼ばれていた。
*それが戦後に延長して農学部脇に神田(しんでん)停留所が出来た時は周囲はまだ田圃だった。更に延長して郡元に達し所謂循環線(山手線)が成立したのは昭和34年12月の事である。その頃これを更に延長して県庁前を通り国道225号線から鹿児島駅に通ずる循環線にしようとの話が出ていたがどうなったのだろう。
*鹿児島駅線では松山通りでカーブする予定だったが廻りの金融機関、商店呉服店等から騒音が五月蝿くて商売に差し支えると猛烈な反対に遭った。その際山形屋は空いた敷地を提供して朝日通りに電車を通した。その後の後両者の勢いを見ると感慨無量である。
*始め朝日通り朝日相互銀行から左に曲がり西郷さんの銅像から右に曲がって県立病院(大学病院・今の医療センター)から岩崎谷に曲がっていた。昭和24年4月電車がカーブを曲がり切れずに七高(黎明館)の堀に転落した事故があり(写真1)丁度私が医局にいた時で怪我人が運ばれて来た思い出がある。以前の大学病院の裏に「岩崎谷」停留所があったが高架になっていて下を国鉄の機関車が煙を吐いて通過する姿は勇壮だった。(写真2)しかも停留所が高く周囲にビルなどない頃だったから正面に桜島の勇姿も眺められて印象に残っている。この線も清水町が終点だったが市としては磯まで延ばす予定があったそうだ。自動車の渋滞に押されて昭和60年頃廃止されている。
*伊敷線も草牟田近くで国道3号線から離れて専用道路で兵営(保健センター)前まで通じていた。周りに金魚池があったりポプラ並木があり眼の前で広い錬兵場での兵隊の訓練が見られるものだった。この停留所は休日には兵隊の家族の面会人が多いところだった。
*伊敷線は新照院の国鉄ガードが狭くて長い間単線を強いられていたが増えすぎた自動車の交通の邪魔になるといって昭和60年9月廃線になった。一部には伊敷線は空港まで延ばせばよかったという意見もあった。
*私の印象に残っているのは高見馬場の停留所だ。三角地帯になってどの方向へも乗り換えが出来た。あの小さな三角の中に傘付きの柱がありその下に人が待ち合わせていた。今から考えると滑稽とも思える。
*武之橋の車庫から鴨池まで土手の上を一直線に走るチンチン電車は新川の湊橋にあった唐湊温泉から一望に見えていた。高等農林(農学部)のオランダ式の風車と荒田八幡のこんもりとした森の間は天保山まで広い広い田圃だった。畦道を歩くとトンボがピチャ、ピチャと顔にあたり夕方になると周囲の笹の葉にトンボがビッシリと止まって寝ているものだった。
*田圃の中を走る電車の停留所は各駅とも形式が異なり童画風でロマンチックな設計はヨーロッパの田舎の駅に似ていた。週刊新潮の表紙に25年来連載して子供に夢を持たせた谷内六郎の絵を思わせた。(写真3〜5)
*ところが戦後の復興事業により昭和35年ごろから軌道基面の降下工事が始まり鴨池のハイカラな駅までスッカリ切り広げられて周囲の路面と同じ高さになり現在の思い掛けない広い道路の様相になった。両側の田圃にはビルが建ち並び頻繁に自動車の往来する主要道路になったのである。確かに交通は便利になったが田園風景の昔を知る私としては誠に感慨無量である。
*昔風の停留所で最期まで残ったのは脇田であった。昼間はトンボが飛び交い夜は「ふくろう」が鳴きホタルの光が美しかった。海岸が近かったので田圃には「かに」や「磯アマメ」が這い回ったりしていた。その頃は未だ大学病院は無かった。
*涙橋から谷山に行く時、二軒茶屋の手前で一瞬電車内の電気が暗くなる所があった。その頃は脇田と武之橋で電圧の調節をしていたので切り替える必要があったのだ。現在電圧補完装置がついて全線電圧は一定しており昔懐かしい情景は見られなくなった。
*この谷山線は始め国鉄指宿線と競合したそうだ。結局両者平行で走ることになった。市電谷山線は慈眼寺か坂の上まで伸ばす予定があって鉄橋の足が残っている。昔は数台の乗合馬車が通い、現在は市営バスが通っている。
思い出せば限界はない。最近の電車は大型になりユートラムU7001といって超低床連接車となり運転席は厳重に限られ、まるで国鉄並みの重装備になっている。線路は芝生を張り夜間照明も美しく次世代の都市総合システムへの努力がなされつつある。80年の市電の懐かしい思い出を綴ってみた。
参考文献
1)文中の写真は「鹿児島のチンチン電車50年」による。
2)文の大意は「鹿児島市電が走る街今昔」によった。

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