随筆・その他

鹿 児 島 市 上 水 道 の 歴 史
中央区・中央支部
(鮫島病院)       鮫島  潤
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 私は生後八十数年水の綺麗な甲突川を前に緑の深い城山を背にして育って来た。城山の散歩の際に黎明館の直ぐ後ろに由緒のありそうな草木に覆われた不気味な洞窟があり何だろうかと不審に思って居た。(写真1)現在其処に「この穴は22代島津藩主継豊が江戸在勤中に水道の恩恵を受けそれに非常な関心を持ち帰国後鹿児島の冷水峠から水を引いた。鹿児島の水道の設置は他の藩より非常に早かったのである」との掲示板が立っている。
 この洞窟を探検したいと思ったこともあったが果たさないまま歳だけ取ってしまった。ところが鹿児島新聞明治44年7月21日からの新聞に「驚くべき城山の怪穴」として7日間連載されて居たが非常に読み難かったが一部抜粋する。

*古井戸の様な穴に懐中電灯、蝋燭に短銃、短剣を持って侵入する。足元から心中女の遺書が出たり、木乃伊が出たり道幅は広くなったり狭くなったり、猫の様な蝙蝠が出たり、白鼠の大軍にも逢った。大入道が出て短銃を発射して一時失神したりしながら岩崎谷の方に向かっているらしい。氷の様に冷やかで刃の様に鋭く冷たい風、滝の様な水音と水の流れ、飲むと水は舌触り柔らかく甘味あり、世に求むべからざる名水だった。結局新照院の裏手に出た。「出た出た」と心の中で叫ばざるを得ない。*

となかなか面白い。
 昭和58年3月鹿児島市の埋没文化財研究者達が探検しようとしたが「石管」で塞がれている、として打ち切っている。
 冷水峠は昼猶暗い大木の森林の中に湧出する歴史の古い大規模な水源として知られていた。(写真2)開鑿された道路も狭くてきつい所だった。薩摩三国名勝図絵に「寒暑増減無く湧出の霊泉にして冬日暖かく、夏日冷やかなり」と書かれている。この水を岩崎谷を経て城山を掘り抜けて現在の黎明館の鶴丸城内に運んでいた。
 又別に下田町(伊敷町との境)の七ヶ窪に滾々と湧く水があり、私の小さい頃は周りの田圃にはハッチョウトンボが群れていた。現在絶滅品種になって見られない。此処から7〜8号のトンネルを掘ったが地盤落下、地下水噴出などの苦心を超えて自然流水で上之原配水池に運んで来た。ここは桜島を見渡し風光明媚な高台で桜の名所だった。脇に掘られたトンネルに戦時中は水道局が疎開していたという。
 鹿児島市水道史によると当時の工事は素掘りで配管も河頭石、小野石を刳り貫いて接合には差し口石と承け口石に分かれ珪藻土や粘土を接着させ漏水を防止しそのために上方に開けた穴を塞ぐ栓まで用意してあった。(写真4)当時の河頭石工の土木技術は大したもので配管は水道局に保存してある。このときの工事と石管の細工は水道史上に有名で近代土木工学史上から見ても驚異に値するそうだ。
 上之原を出て鶴丸城に集まり藩用に使われた水で余った分を石燈篭その他各所に高桝(たかます)と称して約3m位の貯水槽に溜め其処から箱水配水と言って石囲いの水だめに分水され市民は其処まで水汲みに行って居たそうだ。(現物が水道局正面玄関前に保存されている(写真5))酒、味噌つくりに使うことが多かったが、権利金が高かったという。大正8年上之原配水池が完成した時、朝日通りの警察前で消防署がデモンストレーションで放水してその水柱が火の見櫓を飛び越えた時は市民は大喝采だったそうだ。
 大体鹿児島の水は四万十層のカルデラ砂岩のシラス層を通って来ているので四季温度が一定し水が清潔で美味しいといって遠く遠洋航海の船がわざわざ鹿児島に回送して給水して居た。特に日清戦争後台湾との直航便が出来、肥薩線も開通したりして人口も急激に増えていった為、上之原のほかに新しい水源が求められた。昭和3年稲荷川上流の滝の神に大きな水源が見付かったが、あそこは昔火薬製造所や肥料会社があり大きな水車が多数廻っていた。渓谷と桜、紅葉の名所で医師会の出張りがあったこともある。然し現在では厳重な柵で塞がれ中は窺えない。
 水道工事の資材購入は一次欧州大戦のあおりで難儀したが迫水久常等の政界財界人に運動したらしい。何とか順調に行っていた。その後世の中は戦時体制となり水道設備工事も資材困難となって来た。いよいよ戦争も末期となり度重なる大空襲の為米機を見ない日は無かった。水源池も主要な配水管も米軍の爆弾により大きく破壊され全市断水が続いた。七ヶ窪水源池の山中でさえ爆撃を受けた。戦後当分の間水道管の漏水は90%で「ザル給水」と呼ばれた。焼け野が原の市街地各所にシュウシュウという水噴き出しの音が響き、特に夜間は無気味なものだった。しかも敗戦後、立て続けに襲来した枕崎、ルース、デラ、ジュデー台風などの超大型台風が水道の破壊漏水に拍車を掛けた。水道局から「水も兵器だ、一滴も無駄にすまい」と節水の呼び掛けが頻繁だった事を記憶する。水道の復旧は敗戦直後の8月20日から既に始めていた。物資が極端に不足の為、破損箇所の継ぎ目には煙突の管や孟宗竹を使ったそうだ。
 敗戦後進駐して来た米軍は水道局が深層水をそのまま使っているのに驚き市当局が水質、細菌検査も大丈夫だと説明しても聞き入れなかった。「水道水は沸かして呑め」という当時進駐軍の命令は天皇陛下以上の権力があったし、丁度赤痢の大流行があったので米軍の監視の元にカルキを入れることにした。しかも進駐軍は水道水の抜き取り検査までやる厳しさだった。カルキ投入後から早朝とか台風後には水道の水は白く濁り、お茶も不味く、池の鯉が死んだりした暗い時代だった。それでも進駐軍にとってそれが当たり前だったのだ。明治7年ウィリアム・ウィリスも水道の衛生を説いて居た。
 戦後もやっと落ち着いて来たが、七ヶ窪の周りは柵に囲まれあれだけ飛んでいたハッチョウトンボも全く見られない。冷水の峠は崖も森林もスッカリ切り払われて明るくなって居り今でも水が出ているのだろうかと心配する。一方では甲突川から取水したり、郡元の旧海軍の井戸を買い取ったり、万之瀬、川辺等の表流水のほか湧水、地下水、伏流水などを探して捕水に努めている。
 その他幾つかを思い出してみたい。
*吉野の寺山自然公園遊歩道の脇に西郷翁の開墾記念碑があるがその隣りに鬱蒼とした森の中に水道水源の碑がある。始め大量の水が出ていたが今は水源としての役目は果たしていないらしい。
*吉野台地中別府入り口(よしやタクシー前)の三叉路に非常に綺麗で冷たい湧き水があり、若い頃野外演習の時、汗を拭いたり喉を潤したりしていたが現在では水も枯れて全くの荒地になって居る。(写真6)
*清水町に仁王堂水源あり大量の清水が出て清水町の町名の由来だった。大乗院と言う大伽藍(寺は廃仏毀釈で消失、現在清水中学校の敷地)の参道の壮大なる門だったそうだ。大切な水源池だったが今は昔ほど湧水の勢いはない。
*近くに韃靼鼕(たんたど)(蒙古族の鼓と言う意味)と言って蛇の穴の水源があった、「水音常に鼓音の如く」と言われていたが今は無くなって居り、たんたどバス停留所と公園の名前だけが残って居る。
*戦前U外科の本宅が大竜町にあり屋敷に水源があって上水を水道局に寄付していた。庭に大きな池があり、超弩級の大型鯉が数十匹群れて優雅だったが最近、池は埋められて大きなマンションになっている。大柄でおおらかなU先生の事を思い出す。
*他方、水上坂の入り口に阿弥陀堂があり中の井戸から冷たく綺麗な水が滾々と湧いて妙円寺参りの往復で喜んで呑むものだった。これも水の勢いはない。
*谷山慈眼寺の入り口に崖の下から綺麗な湧き水が出ていた。森の深い静かな所で子供の頃よく遊びに行った。現在も水源地になって居たが湧き水の勢いは昔ほどではない。
 鹿児島市水道局は55万市民の需要の為に断水があってはならないと懸命の努力をして居る、有り難いことだ。水源も湧き水も幾らでも同じ様な例を思い出すが街の開発の為自然が次々に失われるのは非常に淋しい。



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