明日が3学期の終業式という日、午前中に1年生から5年生まで講堂に集まった。明日の式の予行練習をするのだそうだ。各クラス2列に並んで坐った。私は前から5〜6番目だ。なにしろ1年生入学時の健診で、身長108p、体重18kgのちびだった。しばらく坐っていたら女先生が私のところに来て「西橋君、今日は1番前に坐りなさい。」と言われた。
何でだろう?と思いながら人を押し分けながら1番前に出た。教頭先生が「今から明日の表彰式の練習をするので、名前を呼ばれた人は大きい声で返事して、此の壇に上がって下さい。机のまん中に立ったら賞状を渡します。」と言われた。女先生が亦来て、「上級生がするのをよく見ていなさい。難しい事ではないから。あなたは右側の階段を上がっていきなさい。」と教えてくださった。
教頭先生が「さあ、始めますよ。」と言われ壇に上がって行かれ机の中央に立たれた。別の男の先生が児童達の前に立たれ、名簿を見て「4年1組、丸山太郎君。」と呼ばれた。丸山君は元気な声で「ハイ。」と言って立ち上がり、左の段から上っていった。机の中央まで来ると教頭先生の方を向いて一礼した。教頭先生は一枚の紙を引き出しから取り出すと「表彰状、尋常科第四学年 丸山太郎。右者遠山奨學資金規定第二條第一號ニ依リ之ヲ表彰ス。」と読まれ、丸山君の方へ賞状を向けて差し出された。丸山君はそれを受け取って一礼すると、左の段から降りて自分の席へ戻った。次は五年生が同じ事をした。今度は1年生の番だ。2人の人がするのをみていたので大体頭に入っていた。「1年1組、西橋弘成君。」と呼ばれた。「ハイ。」と返事をして右側の階段から上っていった。「表彰状・尋常科第一學年・西橋弘成、以下同文。」と言って表彰状を渡された。私は両手で受け取って一礼して右階段をおりて自分の席へ戻った。2年生、3年生で第1回目は終った。これで終りかと思ったら第2回目の賞状受け取りの練習があった。但し文面が少し違っていた。
翌日終業式の本番があった。今日は1年生からだった。名前を呼ばれたので大きい声で「ハイ」と言って立ち上がった。昨日の通りやればいいのだと自分に言い聞かせ階段を上がった。校長先生は「以下同文」なしで最後まで読み上げられた。2年・3年と進んで行ったが、3年生の受賞者が姉である事に全く気付かなかった。2回目の授与式が始まった。これも昨日練習した通りにやれば良かった。
表彰式が終ると校長先生のお話しがあった。「2週間ばかりのお休みを病気や怪我をしないように過ごすこと。4月からは1学年上がるのだから、今まで分からなかったところがあれば復習しておくこと」とおっしゃった。それから銘々の教室へ帰った。教室で担任の話しがあってそれで解散だった。
私は家へ急いだ。やがて3年生の姉も帰ってきた。別の表彰状には「1等賞」と書いてあった。副賞を貰ったので開けてみた。黒い書道具入れで、蓋に金色の鶴の絵が描いてあって、美しいものであった。夕方親父が工場から帰って来たが、「遠山賞」については何も言われなかった。
親父は謠と尺八を若い時から習っていて、荒木では5〜6人に尺八を教えていた。その中に小学校の校長もいて、私と姉が「遠山賞」をもらう事を父に話してあったらしい。私は両方共100点満点で姉は95点が1つあったらしい。兄弟で遠山賞を貰った人は何組かあったらしいが、姉弟が同じ年に貰うのは今回が初めてであったそうだ。
親父は表彰状の事には何もふれず、副賞を開けてみて、「これは上等だ。」と言っただけだった。「遠山賞」なんて初めて聞いたので、姉にたずねたら、有志家の遠山さんが学校に金品を寄付して出来た奨学資金で、荒木小学校の児童が勉強が良く出来るようにと寄付されたらしい。親父は姉と私が「遠山賞」を貰ったのを当り前と思っていたのか、一言もふれなかった。
2年生になった。担任のことはよく覚えていないが男の相川先生だった。2年生から級長・副級長が職員会議で決まるが、2年1組は私が級長で古賀君が副級長だった。女先生は何処かへ転校されたようで姿を見なかった。然し彼女は私を「遠山賞」の試験に選んでくれたので、恩師の1人に当るだろう。私は勉強では古賀君を一身長抜いていると思っていたので女先生が第一に私を選ばなかったのは残念であった。
荒木校では書道やスケッチにも力を入れていた。毎学期席書会があり、天・地・人・五客の入選があった。スケッチは年2回西日本新聞が大会を開いていたので、我が校からも各学年5〜6人選ばれて久留米城跡まで出かけた。私も姉も選ばれて篠山城跡(久留米市)へ行くことが多かった。各学年共、月1回はスケッチの宿題が日曜日に出ることが多かった。絵の上手な先生が各学年の絵を観て人選されていたようだ。我々姉弟も時々入選することがあった。
昭和13年の10月の末だった。夕食の時、父が「荒木を離れることになった。」と言った。折角いい環境で楽しく暮らしているのに、どうしてだろうと思った。昨年(12年)支那事変が起って、日本側は半年もあれば片がつくだろうと高をくくっていたが、米国、英国等の梃入れがあって支那の軍需力が増して簡単に終りそうになくなったので、砂糖みたいな贅沢品は止めて、軍需品を作る様に決まって工場は無くなることになったのだそうだ。
父はサハリンの石炭会社に就職し、我々は母の実家のある熊本県人吉町へ移ることになった。
転居する11月末、社宅の人々、姉や私の友人が沢山荒木駅まで見送りに来て下さった。私は制服につけた級長のバッジ(桜型)を貰っておきたかったが、やっぱり返すべきだと思い、バッジをはずして古賀君に「これを先生に返しておいて。」と手渡した。古賀君は「うん、返しておく。」と受け取った。級長の私がいなくなったら古賀君が繰り上げ当選で級長になるだろうと思った。
12月初めから、人吉町立東小学校へ通うことになった。母の実家から5分のところへあり、先生は井上先生といって海軍上がりの体格のいい先生だった。珍しく坊主頭であった。
私の隣の席の子が私に最初に教えた事は、私の予期せぬ事だった。「あんね、喧嘩の1番強かとは河カワ野ノ君で、2番が久保園君で、3番が○○君で、…」と6人位の名を挙げた。河野君は中肉中背だが、厳しい顔をしていた。久保園君はクラスで2番位の背の高さだった。
どうやってこの順番を付けたのだろうと不思議だった。ボクシングか角力ででも取らせて決めたのか?私が知りたかったのは学力の順番だったのだが、これはテストがあれば分かってくることだと思った。
井上先生は若くて(独身?)体力もあった。昼食後運動場に出て来て「先生をつかまえたらいい物あげるよ。」と言われてほぼ全校生徒が散らばって遊んでいる中を走り出された。クラスの半分位(30人)が運動場に拡がって先生がこちらへ走って来られるのを待っている。先生が来られると他学年の後からパット前に出て捕まえようとする。先生はひょっとよけて走って行かれる。服に触った者もいない。雨が降らない限りこの遊びは続いた。1月・2月の寒さも感じずに済んだ。たったこれだけの遊びが楽しくて仕方ない。他には教員の姿はみられない。授業のことは余り覚えてないが、わきあいあいとして面白かったと思う。恩師の1人だ。(つづく)
| 編集委員会註:前編「恩師(1)」は医報第8号49頁に掲載されております。 |

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