随筆・その他

あ る 青 春 ・ 若 楠 特 別 攻 撃 隊
西区・武岡支部
             脇丸 孝志

 昭和20年3月陸軍航空士官学校を卒業し水戸及び明野の両飛行場に配属となった見習い士官190余人は、遠距離及び近距離戦闘機操縦技術を訓練する第26教育飛行隊所属となり旧満州東北部ジャムス近辺の湖南営、老蓮、蒙古力三飛行場群に赴任した。8月1日、陸軍少尉、任官、弱冠20歳。慶びも束の間、8月9日、ソ連参戦するや急遽、標記の特別攻撃隊を編成し、進入するソ連戦車群に対する50キロ「タ弾」攻撃の命令が下った。爆装準備に明け暮れるうちに無条件降伏と共に全て雲散霧消、即刻復員となる。大多数の同期生は、幸運にも順調な帰国が出来た。が、しかし数奇な運命に弄ばれた一人の朋友がいる。後年出版された回顧録集による彼の手記を披露しよう。

『青春、輝かしく、そして屈辱の』
 ここに赤茶けた古いノートがある。昭和23年暮れにシベリアから帰国して一段落した時、喜怒哀楽の起伏した青春を忘れ難く、卒業からの事を書いたものである。それを見ながら、思い出すことなどを書いてみた。
@ソ連参戦後から新京まで
 8月9日・2:00頃、突然轟音で目がさめた。ついで、非常呼集、そしてソ連が参戦したと伝えられる。8:00新立屯飛行場に転進し、東部正面の敵に対する作戦に参加する旨の命令が下達された。その後、エンジン始動車に乗って掩体に格納してあった飛行機(すでに使用していない主として二式単高、練習機)を、2人で無作為に1機ずつ選んで乗機とした。(この飛行機が佐川と俺の人生を運命づけてくれたのである)。いくらか整備したのだろうかよく記憶にないが、アルコール用の気化器にガソリンを給油したことだけは確かである。14:00頃離陸、(後で聞いたが、磯部が編隊長であったとの事)飛行計画は途中、方正飛行場で給油、ハルピンで一泊となっていた。ジャムスの町に別れを告げ、老蓮を過ぎて依蘭にさしかかる前から、次第にエンジンの回転が落ち始め、1500回転がやっとの状態。機首をあげ、レバーを全開(ガスが濃厚なので高空レバーは8乃至9と殆ど全開に近かった)しても、僚機についていけず、やむなく依蘭飛行場に着陸した。しかし整備関係者はおらずなかなか通じない。電話でようやく老蓮に連絡がつき、本田大尉が見えられて、翌日老蓮に帰るよう指示され、その夜は飛行場大隊に泊った。
 8月10日・朝、竹林悟(佐々木)が九九式高等練習機で来て老蓮に戻ることとなり、昨日の機は佐川が操縦し、共に老蓮に到着した。
 8月11日・雨、飛行機の整備、このとき同期の58期は14、5名しかいなかった。食事が終わって立ち上がるとき、首からさげていた航空時計の竜頭をテーブルにひっかけたため、こわして役立たずにしてしまった。
 8月12日・鼻の辺りが痛いので、触ってみたらヌルヌルとして血だと思った。このままではと、思わずベルトを外したら頭が地につき、身動きできなくなった。ようやく離陸していた佐川を想い出し声をかけたが返事なし、繰り返すうちにようやく返事は返ってきたが、「後ろに乗っていたのは誰か」といい、「松平だ」と言っても、またすぐ聞き直すので、オカシイと思った。何はともあれ脱出しようと、まっ逆さまの体位、手で土を掘り始めた。ようやく首だけが出たとき、古屋が飛行場大隊の兵とともに助けにきてくれた。飛行場の近くでよかった。そのまますぐに依蘭街の病院に連れて行かれた。広間の鏡で顔を見たら、泥と血が混ざって何ともグロテスクで、この顔だけが飛行機の外に出ていたのを見た兵隊さんはさぞ吃驚しただろうとおかしかった。不時着するとき左を見ていたので、鼻の右側を打ち、軟骨が折れているとのこと、佐川は前歯を折ると共に記憶を喪失し、翌日の昼頃まで回復せず、絶えず「後ろは誰だったか、済まなかった」と5分おき位に繰り返していた。
 8月13日・良い天気である。窓から見る風景は大変平和である。昨日までのこと、また戦争のことは頭から消え去ったみたいな気持ち。看護婦さんに借りた小説を読みふける。「結婚の生態」その他。佐川はまだ昏々と眠っている。これまでのことは一体なんだったのだろう。昼頃佐川が正気にかえった。なんとしても奉天に行かなければと、古屋が松花江を下る船便を調べてくれ、16:00頃、病院長が出してくれた馬車に乗って依蘭の波止場に行き、松花江を下ってハルピンに航行する最後の船に乗船する事が出来た。その頃には鼻が腫れ上がってしまったが、痛みは感じなかった。事務長の計らいで一部屋を貰って休む。まだ、千振から歩いてくる人達を待っていると言うことだった。18:00頃、ソ連機(アメリカのB25と思う)の銃撃を受けたが被害なし。一撃だけで飛び去って行った。
 8月14日・依蘭飛行場の飛行場大隊の連中も乗船し見舞ってくれる。船に乗っていたのはジャムスからの人達と軍隊であり、甲板は兵隊たちでいっぱいだった。
 8月15日・方正飛行場に着く。終戦とか、陛下のラジオ放送とかという話を聞いたが、詳細不明のまま航行を続けた。前の船は満軍の略奪を受けたとのことであったが、我々の船には、多数の兵隊が乗っていたためか、船を横付けにはしたが、何もしなかった。
 8月17日・夜、ハルピン到着。市街地の方から時々銃声が聞こえていた。やはり敗戦のことは事実であった。しかも無条件降伏。その夜は下船は出来なかったのであるが、一曹長が同期生の迎えとしてきた。軍官の58期(船舶)がいるとのこと、下船した。涙と共に酒を飲む。ピストルを貰ったのは覚えているが、彼らの名前もまた、何をしたかも覚えていない。
 8月18日・汽車で奉天に行くべくハルピン駅に行ったが、果たさず。
 8月19日・夕方ようやく貨車に乗ることが出来た。立ちっぱなしで24:00頃、新京駅着しかし、以降南下は差し止められたとのことで下車した。
 8月20日・一応自宅に帰り、明朝航空軍指令部に行くこととし別れた。古屋は佐川の家に泊った。帰宅の途中、街角に満軍が屯しており、マントの下でピストルを握り締めていたことが印象に残っている。
 8月21日・800航空軍司令部に出頭。その後は司令部とともに収容され、以後市内を転々とした。58期は我々3人のほか、原田昇ら10人がいた。
A収容所から帰国まで
 以後、二航空軍司令部と行動を共にしたが、2−3箇所の場所を転々とし、大同学院に落ち着いた。教室であろうが付近の撤退した官舎の備品を集めて、囲碁、マージャン、読書なども自由であった。収容所の周囲は三重の有刺鉄線を張り巡らし、四隅に自動小銃を持った警備兵が立っていた。
 10月28日・老蓮から汽車で出発し、開原でストップされ、奉天に行けなかった安福信彦、奥井恒英、高橋勝と会う。何時頃だったか島田隊長が来られたことを耳にし、訪ねて行ったがどんな話をしたか覚えていない。ただ2000円頂戴したことを記憶している。島田隊長は2−3日で出発されたようである。
 11月4日・混成第四作業大隊が編成され、(大隊長53期鳥羽少佐)、第6中隊に配属(中隊長沢田中尉)(明野―老蓮整備)、部下50名は戦後新京市内から一日の使役に出されたまま自宅に帰して貰えず、そのまま収容所入りさせられた人達だった。同期は、佐川、奥井、高橋、安福、入船(重爆)と小生の6人で、小隊長。古屋とは何処で別れたのか記憶にない。
 11月9日・夜、新京駅発、貨車の中を二段にしたもの。寝返りもままならず、交互に寝た相手の足がわき腹のあたりを蹴るような寝台。
 11月10日・ハルピンで乗り換え、汽車は牡丹江に向って動き出したので、別れるのかと思ったが、次の新香坊で乗り換えた。シベリヤ本線の軌幅に合わせた貨車への乗り換えに過ぎなかった。
 11月18日・満州里を過ぎて国境通過。トーチカ、鉄条網が見えた。最初のソ連の駅、100円対30ルーブルで紙幣交換。以後、予科士官学校で教わったロシア語が役に立つことになった。
 11月20日・チタ。「ザ・バイカル」何とも大きな湖。朝、湖畔の一隅に入り、南のごく一部を1日中走って夕方ようやく見えなくなった。未だ水はなかった。
 11月24日・イルクーツク。
 11月25日・チェレムホーボー(イルクーツク西、汽車で約4時間弱)着。第四分所。炭鉱だ。三つの炭鉱の地上、地下の作業で、指揮官としての作業、或いは本部要員として1年余り。
 昭和22年3月・将校の自発的労働従事を要求され、将校のみの作業班によるレンガ工場労働。
 昭和22年10月8日・半数(50名)の将校が旅立った。その前に佐川は2−3人だけでどこかへ連れ去られていた。それらのショックか、黄疸を病み高熱に悩まされ、約半月入院した。
 昭和23年3月29日・第八分所収容所に移る。主として土木作業。
 昭和23年7月6日・イルクーツク第一収容所に移る。民主化運動の激化。思う事を口に出せない辛さの経験、帰国の為忍の一字の3カ月。
 昭和23年9月15日・イルクーツク第二収容所。馬鈴薯の収穫作業、再びチュレムホーボー時代の将校連中と一緒になる。(安福、入船とも)久し振りに仲間内で自由に物言える幸せ。しかし作業は朝の6時から夕方の7−8時までと、相当きつかったが、馬鈴薯は十分食べられ、体重も51キロから58キロに増えた。
 昭和23年10月5日・夕暮れ、コルホーズからの帰途、(ヤポーニヤダモイ)とのカンボーイの声に、半信半疑ながらラーゲルに帰ったら、とうとう帰国のリストに入っていた。
 昭和23年10月11日・ナホトカへ向けてのダモイ列車に乗車、既に雪一色。来るときと同じ貨車の二段ベッド。しかし、帰りは軽い。
 昭和23年10月21日・ナホトカ着、相変らずの民主化運動の洗礼を潜り抜け、何とか乗船に漕ぎつける。沖合いに船の見えたときの感慨は忘れられない。
 昭和23年10月29日・収容所から3キロメートル、革命歌を高唱しつつ行軍、タラップを登り詰めるまでの辛抱と耐えるしかない。とうとうタラップを登り詰めた。船への入り口に菊の花があった。目頭が熱くなる。
 昭和23年10月30日・舞鶴上陸。船から見た祖国は緑多く、何と美しいことか。久し振りの日本女性(看護婦さん)の日本人らしい美しさと共に目に焼きつく。その後、米軍(二世)から主としてソ連国内の事情についての調査を受ける。
 昭和23年11月2日・汽車で京都へ。京都の親類で約10日間、全くなすことなく呆然と暮らす。
B〔結び〕
 屈辱のこの3年間が全く無収穫だったわけでもない。弱冠20歳にして持たされた部下は年長者ばかり。しかもそれらを指揮して労働に従事するが、勿論代償を与えるすべもなく、ただ、如何に労働を軽減する為にソ連人監督と折衝するかということが精一杯のできることであった。先頭に立って働くことこそが統率の道で、命令だけではとても出来ないこと、即ち、人の使い方の難しさを体験した。そしてまた、このシベリヤの3年間で思い知らされたのは、人には夫々の運命がついて廻っているのだということ、しかもそれは変えられそうにもないということである。爾来、計らわず、最善を尽くす努力をして、運命に従う習性みたいなものが身についたようである。そして40年の第2の人生を終わろうとしている。
 不死鳥・ある青春(若楠特別攻撃隊の記録)
 昭和61年8月15日・『松平寿夫』終。
 発行責任者   磯部重雄
 編集責任者   松平寿夫
 筆者註;因みに松平君は鹿児島県立二中(現甲南高)筆者と同学年、共に幼年学校へ進む。想えばソ満国境近くにいた我々が敗戦から僅か旬日余りで故郷の土を踏んだ時、両親の喜びとは裏腹に、世間に対して何となく肩身の狭い思いをしたことは忘れ難い。ましてや、多くの近在満蒙開拓団の方々、残留孤児方の悲惨な逃避行に思いを致すと哀しい気持ちで心が痛む。そして辛い。



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