母方叔父、浜田茂吉は大正8年熊本陸軍幼年学校23期生に合格したという。私の生まれる6年前の昔話。幼心に彼の凛々しく輝かしい軍服姿と端正な挙措進退に牽かれ始め、羨望と憧れに傾斜して行く。後年、私は奇しくも20年後輩として同校に合格、43期生となった。齢14歳に満たない幼年生徒の誕生、故郷を後に熊本へ旅立つ。昭和14年春の事。以後6年有余、東京、埼玉、水戸、満州、と環境は変わったが、戦局が拡大激化するにつれて、次第に戦場で討死する事だけを念頭に今日を限りの武窓生活へと突き進んでゆく。
若楠特別攻撃隊の一員として突入直前に不幸な大戦が終わり、不思議にも命永らえて復員出来た。戦後は大方の例に洩れず、生き抜くための茨の道で波乱万丈のドキュメンタリーが繰り広げられた。暫し紆余曲折の挙句、生れ故郷に程近いこの地にささやかな診療所を拓き、幾十年を経過した。この間に両親は勿論、最愛の連れ合いまでをも看取らねばならぬ宿命に耐えた。医の道を志した身にはとても辛い感謝と深い感慨を覚える。同時に、もう我が名前が決して面映ゆくないと胸を張れるようになった。父、妻、母逝きて夫々40、28、19年経過した。その追善供養も欠けることなく執り行って仕事持つ身には全く夢のような時の流れだった。戦死した長兄に代り次男として当然の役目。前準備と後始末、自分の事は自分でと星の学校で仕付けられ第2の天性らしくなった身、供養墓守などキバランカイ。大学白菊会員篤志献体者番号1051号の身でもある。先年子供達に喜んで同意して貰ったんだっけ。没後即刻、次世代後進医学生のために再々度の奉公が待っている。が故に、先々、心身をゆめ疎かに扱うでないぞ。
『老いたれば、悲しみごとも深からず、朗らに人の死をば語らふ』詩人村野次郎氏の句を拝借して稿を終わりたい。
(亡妻満28年目の祥ショウ月ツキ命日 脱稿)
平成19年6月2日

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