随筆・その他
波 の 平 刀 工 の 由 来
―― 薩摩鍔を加えて ―― |
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私達が幼い頃「兵六餅」というお菓子があるものだった。吉野の原野に跋扈する妖怪変化、人を騙す狐どもを退治する大石兵六(大石内蔵助の末裔)が赤鞘の大刀を差している絵が菓子箱の表に印刷してあったのを記憶している。最近この大刀が波の平だと聞いて驚いた。
「波の平」の遺跡には小学生の頃遠足で行ったことがある。こんもりとした森の中に滾々と泉の沸く静かな所だった。それから20数年後私は戦地に持参する軍刀として「波の平」を持っていた。当時鹿児島の刀研ぎ師が宮之城に疎開していたのを尋ねて、当時唯一の交通機関であった自転車をこいで夏の盛りの陽を浴びて空き腹に汗びっしょりになって入来峠を越えて研ぎを頼みに行った思い出がある。しかし8月15日突然の敗戦で万止むを得ず刀を進駐軍に獲られぬように庭の築山を掘って土管に入れて隠していた。これで安心という訳に行かず、進駐軍は電波探知機で探し当てるのだ、判ったら大変な目に遭うぞ、と脅されて泣く泣く掘り出して警察に提出した苦い思い出がある。ところが米軍に押収された多数の日本刀のうち一振りの「波の平」の古刀(国宝級)がそれと知らずに収集していたアメリカの、医師コンプトンにより日本の照国神社に返され現在は黎明館に保存されているということを聞いた。私の刀もこうした偶然で帰って来ないものかと夢に見ている。それ以来私の頭の隅にはこのことが残っているので「波の平刀匠の歴史」を調べて見た。
「波の平古刀」の始祖橋口正国は987年約1000年前平安末期奈良の有名な刀匠だったが、薩摩の国は武将が多いから刀の需要が見込まれる、海岸には良質な砂鉄が豊富で、山が近く栗、樫などの木炭が豊富である、焼刃に適した温度の清水が絶えないと師匠に教えられてわざわざ薩摩に渉って来たのである。薩摩に落ち着いて改めて家族を連れて西下の途中海上で嵐に遭い沈没寸前の時、刀を海神に捧げたところ途端に波が静まって後の航海が平穏に続けられたと言う。この経緯から「波の平」の銘が出来たそうだ。その故か「波の平」は海の戦場で働く武士に愛好され日本海海戦の東郷平八郎の佩刀も「波の平」だった。示現流奥義に「波の平」の由来を月夜の波が磯に打ちあたり、あっという間に安らかに落ちつく、これを「波の平」の語源とする説もある。
日本刀は武器としての価値が大きく、刃の粘りが強く非常に切れ味が良く“鋭からず鈍からず”出来上がった刀は風に跳ぶ笹の葉を貫き通した事から刀鍛冶の場所を「笹貫」と言うそうだ。正国の後継者達はその後末永く刀匠として名を残して来た。始め馬上騎馬合戦の時代は反りを持たせるようになり、先端は細く全体が軽く切れやすいようになっていた。薩摩波の平、古刀(平安、鎌倉、室町)と言う、戦場が地上戦となり足軽鉄砲による団体戦の様相を帯びるようになるとそれに呼応し軽くて切れ味も鋭くなった、此の時代を「薩摩波の平新刀」という。(桃山、江戸中期)闘いの無い時代になると現代刀(江戸末期、幕末)と言ってむしろ美術的要素が出て来た。しかし明治初期廃刀令発布以後「波の平」は減少した。
「波の平」始祖と言われる「初代波の平安国」が開いた笹貫の鍛冶場には大きな記念碑が建っており、この地は後に南北朝時代懐良親王一派と島津貞久軍が激戦を交えた古戦場になったという歴史がある。今でも冷たい清水が湧いて如何なる旱魃でも水の温度と量は変らない。私が小学生の頃訪れた時は広い田圃の外れで鍛冶場の跡が偲ばれたものだったが今では近代的な住宅が建ち込めている。それでも何となく周囲は由緒ある地域という雰囲気を漂わせている。(写真1)波の平中興の祖と言われる「五十六代波の平安張」は島津義弘の朝鮮戦没に志願して従軍の為、船出したが朝鮮海軍の妨害による遭難の危険を犯して渡海に成功した。これが義弘を大いに喜ばせたのである。
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| 写真1 |
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写真2
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従軍中、彼の本職である刀つくりには材料を薩摩から持って行ったし、薪は朝鮮の松が豊富だったし、相槌は従軍していた武士達が務めた。凄惨な戦場での刀の消耗が甚だしく、その補給を急ぐので柄は松の枝を利用したそうだ。1000本近くを鍛刀し、その戦力に大いに貢献した。そしてその切れ味は朝鮮兵達から非常に恐れられていた。秀吉の死により軍を引き揚げる時遭遇した泗川の戦いでは朝鮮軍3万8千の首級を挙げる奮闘により薩軍及び全日本軍を無事帰還させた功績は大きかった。
安張はその時の功により義弘から莫大な恩賞と、谷山の坂之上に広い土地を戴いた。後に鍛冶場を移し岩見入道寿庵と号したが彼が朝鮮に出征するとき「俺が死んだら墓の代わりにせよ」と言って植えた松の木は代代植え継がれて現在も残っている。相当裕福だったらしい。現在は周囲が住宅地として開発され昔の面影は無い。累代植え継がれるべき松も松喰い虫にやられて真っ赤になり見る影も無い(写真2)。彼は80歳の長寿にて他界したが墓は慈眼寺近くの射場の墓地に現存するとの事で探しに行ったが現在は住宅団地に造成され墓地は団地の片隅に小さくなり屋根のある家の形をして中に仏像が入っているという安張夫妻の墓も墓地の片隅に押しこめられて、それらしいものが残っているのみである。(写真3)。薩摩刀中興の祖と仰がれた偉人の墓にしては淋しく感じた。
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| 写真3 |
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写真4
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安張は坂之上に鍛冶場を移転した後、笹貫の鍛冶場を本家として長男五十七代安行に譲った。別に谷山の奥地、五ヶ別府町三み重しげ野のにも鍛冶場を造り京において罪を得て奈良から降って来た三条宗近の入門を認め「波の平」の鍛刀を伝授していた。後に彼は罪を許されて「波の平」の奥義を極めた後、京都白川に帰り古刀の粘り、鋭からず鈍からずの「波の平」銘剣を鍛造した。今も跡地に記念碑が建ち彼の屋敷、刀船も藪の中に残っている。(写真4)由緒ある土地をいま少し手入れをしておきたいと思った。このような正国以下累代の子孫は谷山の各所に系列を別けて各々遺跡を残しているがその何れの系統も作った「波の平」の名刀は全国に隆盛を極めて大和の国早州五郎正宗・備前長船の天下の銘刀とその覇を争っていた。60代900年も続いて薩摩刀としてその名を全国に風靡した、これほど名剣を出し続けた刀匠の系統はないと言う。二尺三寸(約69センチ)の長刀、一尺六寸(約45cm)脇差(所謂二本差し)の他、なぎなたの刃、刀の鍔も作っていた。明治9年の廃刀令以後「波の平」の鍛冶場は衰微している。
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茲に刀に欠かせない鍔(薩摩鍔)に付き松元久雄氏の論文より引用させて頂く。
鍔は拳を護り、刀身と柄とのバランスを取り手滑りを防いで切れ味を増すという重要な役を持っている。桃山時代以後は刀装用具としてよりも美術工芸品に変った。特に薩摩鍔は薩摩特有の示現流の影響を受け、攻める一方の示現流では敵の刃を防ぐ意味は持たなかった。見た目は小さくても丈夫に出来ている。薩摩鍔の秘伝の一つに薩摩にては他所みたいに土中にありて不浄な鋤や鍬を使うな、折れた刀、焼けた刀の残鉄を鍛えるが宜しかろうと記されている。鍛冶場は谷山慈眼寺近くにあった。
薩摩鍔の図柄は鉈豆(タッバッ)竹割虎、竜虎、砂潜り龍等は古来有名な日本画家、薩摩藩出身の狩野派、木村探元の画法が取り入れられて質実剛健の薩摩藩の士風が窺われる。
兵六餅の絵の思い出から「波の平」の銘刀を没収された悔しさなど思い出すことが多い。御蔭で「波の平」を少し勉強した。

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