随筆・その他

老 兵 は 消 え 去 る の み か
南区・谷山支部
(鮫島クリニック)    鮫島 康宏

第1話
 私共夫婦は昨年9月旅行会社の世話でバルト海クルージング13日間の旅に行って来た。何分年をとり足も弱くなったのでクルージングが良かろうとの素人考えが誤りだった。船は各地に立ち寄るだけ、あとは観光バスが夫々の地に待機して我々を連れて各地を巡るので大変な疲れであった。こんな長期の旅行は診療を辞めなければ現役ではとても出来なかったと思う。成田空港よりコペンハーゲンに着き、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ロシア(サンクト・ペテルブルグ)、エストニア、ポーランド、最後はノルウェーの各地を巡って来た。どこの国も世界遺産の豊富な所で各国よりの観光客も多く、道はすべて石畳の為持って行った杖の先のゴムはすり切れてしまい、現地でやっと購入する状態だった。一部の皆様は既に御承知の事と思いますが、ノルウェーのオスロのヴィーゲラン公園には有名な彫刻家グスタヴ・ヴィーゲラン(1869年〜1943年)の彫刻(主に御影石製)200点余りが展示されている。彼は自分の彫刻に対し一切の解説を拒否したそうで、一片の説明展示板もない。この像に輪廻をみる人、人生の縮図をみる人、どう感ずるか人夫々に任せたとの事。私は之等の像を見た時深い感動に打たれた。ここに二枚の写真を出しました。@の子供の像は通称、「怒りん坊」と呼ばれている像ですが、之を見た瞬間、何かに衝かれる思いだった。今日本では毎日の様に子供達の事件、事故が多く報道されているが、幾多の子供達が声もあげ得ず犠牲になっている。子供達の本当の怒り、叫び声をきいた思いだった。こんな像が他の何処にあるでしょうか。Aの老人の像は表情をよくみていると、目は苦渋に満ちた社会を見つめている様な気がする。私には今の日本の老人医療の行く末を暗示している様に見えた。何方にも駈け足ツアーの為全容を充分に見る事が出来なかった事は残念だった。作家の曽野綾子氏は書いている。「この世に平和などあり得ない。」「人生は残酷である」と、私は旅行はこの目で見て心に感ずるものだと思っているので写真は撮らなかった。この像の写真は近くの美術館で購入したものに依る。名稱「Vigeland」発行者Normans Kunstorlag A/S OSLO
                 
        @ 怒りん坊                     A 老人の像


第2話
 事は一昨年3月仕事を辞める丁度1週間前におこった。全くこの一瞬は未だに私の脳裡を離れない。偶然とは云え神が私を試されたとしか思えなかった。自宅より少し遠い所によい温泉がある。そこの脱衣場で上着を脱ぎかけた瞬間だった。目の前で100kg近いと思われる人がもんどり打って倒れた。とっさに私は上着を脱ぐのを止め、その人に声をかけたが意識がない。すぐ番台に救急車を呼ぶ様指示し、項部硬直の有無、瞳孔の状態、手足の弛緩の有無、バビンスキー反射、チャドック反射(之は手の拇指と人差し指を力一杯つめてこすると出来た)。之等をそれこそ1分もかからずに診る事が出来た。所謂火事場の馬鹿力みたいなものだったのでしょうか。何れも異常を認めなかったが脈が触れないのに気付いた。直ちに心臓マッサージを開始した。何しろ100kg近い巨体、私も79歳、狭心症加療中の身、5分間もたつと、さすがに動悸激しくなり息切れがして来たので周囲の人に声をかけた。「誰か加勢してくれる人はいませんか」と。周囲は之から入浴する人、上ってきた人等でごたごたしていた。返ってきた言葉が何と「ほっとけ」、瞬間むらむらしたが「俺は医者だ」と、とっさに叫んでいた。やがて40歳台と思われる人がつかつかと寄って来た。「どうするんですか」「今私のやった様にとにかく胸を押して押して下さい」之だけ云うのがやっとだった。理論通り教えられるものでもない。その人は不思議にうまく胸を押し続けてくれた。およそ10分たった頃「痛い、痛い、ここは何処だ。」とその男が叫んだ。ああやっと意識が出て来たか、脈を触れると力強く打っているではありませんか、やっと助かったかと思った所に救急車到着。酸素吸入と心電図測定を指示して送り出したがほんの一瞬の出来事であれでよかったのかと思う事件だった。色々な教訓を教えてくれたと思っている。後日風呂屋の番頭がきて2、3日入院して無事退院したことを報告してくれた。何の病気であったのか。最近よく云われる所謂心臓震盪の類いか、よくわからなかった。肥満体だったので何等かの病気はもっていただろう。
 「命を救えるのは病院にいる救急医ではない。倒れた現場に居合わせた人だけ」と、戸田中央病院救急部輿こし水みず健治医師の一言(日経新聞)に救われた思いの一日だった。後日私のした事が正しかったかどうか大学の心臓専門医にも聞いたが「先生がいなかったらその人は完全にアウトでしたよ」と答えてくれて胸のつまりがとれた感じだった。

第3話
 私が最後の診療をした日の事。午後になると母親に連れられた子供達が沢山やって来た。
 初め何だろうと思っていた。皆手に手に花束を持っているではないですか。「先生僕の命を助けてくれて有り難うございました」と次々云うではありませんか。余りの事に私は呆然としていた。みるみるうちに私の診察机の上は花束の山になった。一瞬、遠く離島に赴任してゆく学校の先生達が花束を一杯抱え、岸を離れてゆく船よりテープを振り振り眼をハンカチで拭いている姿が浮かんで来た。この私にもこんな光景があるんだととても信じられない事だった。「有り難う。有り難う。元気で頑張れよ」と云うのがやっとの事だった。
 やはり人生は素晴しい。



このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009