随筆・その他
三 條 風 雲 児 先 生 と 聴 診 器 |
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昨年11月16日、三條先生が亡くなられました事は私達にとって、まだ夢の中の出来事のようです。三條先生と私の出会いは先生が本職の学校教諭を停年され大崎町教育委員会の開設する「さつま狂句」教室が出来てからです。当時私は趣味とてなく仕事と家事の忙しさに追われていました。大崎町に生れ私は鹿児島弁の中で生活していますのでこの狂句教室に興味を感じ狂句教室の仲間に入れていただく事にしました。月に一回の教室でしたが私の様な初心者でも先生のお人柄と、その力によって気楽について行ける雰囲気で私にとって、とても楽しい教室になりました。皆さんと集って勉強していますと、そこには思わず笑いが生じ、共感し合へるユーモアがあり、諷刺に満ちた中にも、しんみりした人情味のある狂句が十七字の鹿児島弁で詩になった時、何ともいへない楽しい喜びがありました。三條先生の狂句(郷句)や川柳についての偉大さは、2000年に南日本文化賞(芸術文化部門)の御受賞などがすべてを物語っています。私もその三條先生の御指導で狂句の楽しさ、むつかしさなど少しずつでもわかる様になり、狂句教室に通へた事が大変有難く、感謝しています。殊に狂句を郷土の文芸として「郷句」にする努力をされ又品格を失ってはならない事を教へていただき、ますます郷句に親しみを覚え郷土の言葉を愛しながら残して行くべきだと思う様になりました、私は雅号を聴診器としています。この聴診器の雅号はちょっと自分では恥げんね様な気持ちでいるのですが実はこれは三條先生が私につけて下さった雅号なのです。(今までにない雅号だからそうしなさいとの事…)私はためらいましたが今になりますと先生にいただいた大事なものであると大切にしたい気持ちでいます。
三條先生が狂句の機関紙「渋柿」を創刊されましたのは22歳の若さで昭和25年の7月からであり、現在628号に至っています。実は私がこの聴診器の雅号を大切に思う様になったのはも一つ自分の心の中に思う事があるからなのです。それは、私が第八回医師国家試験に合格し医師としての第一歩をふみ出したのが昭和25年の5月なのです。聴診器の雅号をいただいたのもそこに先生との何かの御縁があったのでは?と何の関係もない事ながら、その様な気のする事があります。
郷句は一向に上達もしませんが鹿児島の人でなければ作れない郷句、郷土の言葉でえも云えない味の句が出来た時は本当に心から楽しくなります。自分なりに続けられる限り、郷句を愛し郷土を愛し句の勉強をしていきたいと思います。鹿児島市医郷壇も長い歴史がある事を知りました。こうして投句させていただいている事を本当に有難く思います。ありのままをそのまま表現すればいいと思いますので今後澤山の投句者が出て来られる事を希望し市医郷壇の発展を祈ります。

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