昭和26年3月、高校を卒業した。進学したかったが家計の都合でそれも出来なかった。8つ程の就職試験を受けたがどれもだめだった。
遊んでいる訳にもいかず、私も父と同じく魚の行商を始めた。4月初め小学校の代用教員の試験があった。これで就職試験はすべて終りだった。これに落ちれば来年の試験を待つしかない。行商を続けながら結果の通知を待っていた。
5月初め教育委員会から1通の封筒が届いた。ドキドキしながら封を開けると1枚の用紙が入っている。取り出して読むと「5月10日、東小学校の講堂で面接を行うので、午前10時まで集合あれかし」と有る。当日遅れない様に行った。我が校の同級生も30人位来ている。受験者が250人で面接者が50人位だ。中年の人たちもいる。
受験番号順に面接はあるようだ。私より先に受けた数人が「5月1日で○○中の英語の先生に採用すると言われた。」等と言って面接室から喜んで出てくる。私の番になった。小部室に入って行くと二人の先生がおられる。左側の先生が「今日来てもらったからと言って必ずしも採用になるとは限りません。」とおっしゃった。(これもだめだ)と私は思った。夜、就職係のK先生のところへ行き「先生、何処でもよいから探して下さい。」とお願いした。
7月初め、高校3年の妹を通じて、「今夜、家に来るように」と先生からの伝言があった。何だろう、と思いながら自転車で急いだ。
「今晩は。」と声をかけると先生が出てこられた。「西橋、水上村の小学校に決めたぞ。君は中学校をと言っていたが、中学校は空きがないので。」「先生、有難うございます。小学校でも結構です。行商しているより余程ましです。受験勉強もできるし、本当に有難うございました。」とお礼を言うと、「できるだけ早く行ってみろよ。」とおっしゃった。
8月初め、父からハガキが届いた。珍しい事もあるものだと思いながら文面を読むと、「2学期からR子(すぐ下の妹)をお前のところで面倒みてくれんか。」と言う事だ。言い出したら利かない親父の事だから仕方あるまいと考えて、下宿の叔母さんに頼んで、部屋を探してもらった。すぐ近くに納戸のあいている家があって、そこを貸してもらえた。学校も転校になるので、K先生にお願いに行ったら、「全部しておくから心配するな」と言われた。新しい学校は、始発の駅まで30分歩いて、20分汽車に乗って降りたところだ。私は妹に自転車の乗り方を夏休みの間、ずっと教えた。自転車で行っても40分で行ける。何でもそうだが、小さい時程早く覚える。2学期が始まるまでに何とか乗れるようになったので、車の少ない裏道を通って行くようにさせた。然しまだ月日が経っていないので、ある時は焼酎屋の小僧さんの自転車にぶつかって、ビンを割り、ある時は、竹藪につっこんで足に傷をつくったりした。3学期になって、その後をどうするかという話になった。今の学校は元女学校だったので進学する女も殆ど居なかった。球磨盆地を探しても店員位しかないから、高看に行きなさい。公立ならたいして金もかからぬそうだから。クラスのもう一人が受けに行くと言うので、熊本市内の2つの病院は、妹の叔父の家に泊めてもらい、福岡の2校は、その友人の叔母さんが居るという事で、そこに泊めてもらうことにした。第一目標は九大付属高看と決めた。九大が最後なので、発表をみたら、電報をうつからと妹は出かけた。九大の発表の日になっても電報が来ない。夕方、妹もしょんぼりして帰って来た。仕方がないから熊大付属に申し込んでおこうということにした。1週間後に九大から手紙が来た。「胸写を大角でとってみたいので良かったら来ませんか」と「どうしよう」と妹が言うので「行って来なさい」と送り出した。宿泊は友人の叔母さんの家に泊めてもらったそうだ。
妹が帰って来た。「どうだった。」と聞くと「それがたいした事ではなかったの。右肺に小さな陰影があるので、念のため大角で撮ったのだが、ナルベで全く心配ないので、入学したかったら入学手続をしなさい、と言われた。」と言う。「それじゃ、すぐ手続をして遅れないように行きなさい。」と言って必要な物を急いで揃えた。これは後で妹から聞いた話だが、試験を一緒に受けに行った友人も初め不合格だったそうだが、入学式の日に出席していたそうだ。「どうしたの。」と聞くと、「補欠で入学出来たのよ。」と言う事だったらしい。その後、九大のDr.と結婚し、Dr.は教授になって鹿大へ来られた。女は美人は得だねと話したことだった。
妹が九大に入学して3日程して、K先生から私に電話が来た。「西橋、妹は熊大に入学すると手続していながら入学しなかったそうで熊大の婦長がひどく怒って、もう人吉校からは生徒は採らないと言われた。すぐ断わりの電報をうち、断わりの手紙を出しとけよ。」
私はそこまで考えが及ばなかった事を恥じた。世の中には手続きという事が必要なのだ。
公立は高看は大方が学費等は不要だが、私用品代として月2〜3千円必要だった。私は小学校教員をしていたので、毎月その位は妹に送ってやれた。3年間で無事卒業できた。
妹から就職先が「東京日赤、九大病院、別府温泉研究所の3ヵ所あるが何処にしようか。」と相談があったので「東京にしなさい。若いうちは東京で勉強した方が良いから。」とすすめた。
東京日赤病院へ勤めると、奇しも熊大に2番で合格した女も一緒の場所だったようで、妹に、「貴女が1番だった女ね。どんな女が来るのか楽しみにしていたのよ。部室も隣りだったのよ」と話していた。(つづく)
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