第9章 外科のレジデント
11月6日クッシングは脊髄損傷の第1例を診た。騒々しいバーテンダーの細君が病院に担ぎ込まれたが、彼女の首には小銃弾が打ち込まれていた。一側が麻痺し他側の感覚が失われている事実から、銃弾が脊髄に触れていることは確かであった。彼は古い機械にM.G.H.から彼と一緒に持ち込んできたX線管(MGHのスタッフをがっくりさせた)を取り付けてこの新しい病院で初めてのX線写真を写した。銃弾はまさに第6頸椎の近くにとどまっていた。しかし脊髄が半分厳しい状態であったのでどうしようもなかった。回復はのろかったが、その期間クッシングは丹念に銃弾の存在による無感覚野を研究した。彼の最初の医学報告の主題となった。
クリスマスに際して彼と彼の新しくできた友人トロントのノーマン・B・グウインと二人で手術室で使う大きな靴下にいろんなものを詰めて病棟の子供たちへ贈った。「クリスマスの靴下らしく適当な膨らんだ形になるように物をつめることができて驚きました。」小さな女の子が靴下を開けるのを手伝って踵のところで[不思議の国のアリス]を取り出したときには18年前に帰ったようだったと母親に告げている。
手紙は大晦日の夜書かれたもので述懐して加えている。「自分は引きこもりがちの生活を心がけたにもかかわらず自分にとっては結構多事な年でした。二つの大きな研究所にわかれての病院生活はある意味では非常に狭いと同時にまた広い経験でした。医学以外の人々や事物に関しての実地の知識は狭いのですが、小さくとも驚くほど充実した病院世界に関して言えば広いのです。市の教会の鐘が鳴り始めました。古いジェントルマンはいまや彼の砂時計とともに立ち去ろうとしています。鳴り響く鐘の音が広く開いた僕の窓から入ってきます。まったく静かな春のような外気です。[サリー・インナウア・アリー]の曲を鐘の音に合わせてバンジョをかき鳴らしている人がいて開いたドアから聞こえてきます。新年を迎えるということは誰にでも同じように厳粛ではないのですね。」
新年の最初の重要な出来事は婚約を発表したばかりのネッドとメラニー・ハーヴェーの訪問であった。彼はこの縁組を家族とともに喜びとしたが、同時にいくらか嫉妬の気持ちもあった。というのは突然自分がもはやネッドの愛情の中心ではなくなったことが解ったからである。しかし、このことを母親にネッドを失ったようで、少し悲しい気がすると打ち明けた以外には誰にも告げなかった。
この訪問に続いてケイト・クロウエルが訪ねてきた。前年の秋、病院に着いてまもなく彼女をからかう心算で、看護婦にはなかなかの美人がいる−−−特に彼の病棟のフランス人のマホニー嬢はきれいだと確言した。おそらくケイトは自分自身で確かめにやって来たのであろう−−−いずれにしてもケイトは2月にグッドウイリー家を訪れた。あるとき偶然、クッシングはケイトとの約束を破らなくてはならなくなって、次のようなノートを残している。「僕がどんな人間かお分かりと思います−−−ドッグ・ショーの約束さえ満足に果たせないのです。4時に緊急の手術に行かなくてはなりません。明日ではいけませんか?」
ホルステッドと身近に接触するにつれても「教授殿」と奉られている彼を理解する助けにはならなかったが、クッシングは彼の能力を尊敬するようになった。マサチューセッツ総合病院では手術の速度が重要視され、外科医は「時計で手術」した。だから、クッシングの最初の患者が4時間経ってもホルステッドの手術室から帰ってこなかったときには、非常に心配して、強力な刺激剤の皮下注射を用意していた;ところが驚いたことに、患者はM.G.H.での20分の手術症例よりもよいコンディションであった。これが彼のチーフの丹精込めた方法−−−各血管を丁寧に結紮すること、組織を乾燥から守る細心の努力、皮膚の縫合に際し皴を合わせることなどの最初の導入であった。
クッシングの手術手技はしっかりしていたがなお学ぶべきことが多いと感じていたにもかかわらず、4月に次年度には正規のレジデントに進ませることを内示されたときには非常に喜んだ。しかしながら、そのときにそのポストを占めていたジョセフ・ブラッドグッドが彼の研究が終わっていないので、もう一年残りたいと言い出した。こうして不確定になったのに対し、クッシングは妥協したくなかったので辞職すると脅した。しかし、教授はクッシングを宥めるためにブラッドグッドには外科の研究員制度を創設しようと申し出て、ほかに必要あれば何でもすると宥めた。クッシングは最後には静まり、そのまま責任を分担することを受け入れた。
クッシングはホルステッドが自分の医局員の中から自前の細菌学の研究をすることを期待していることを見出した。彼はハーバードで細菌学の課程を取りはしたけれども、彼の現在の同僚に比べればその知識が乏しいことに気づいた。それでこの1年間を病理学教室の2階で多くの夜をドイツ語の教科書を片手に顕微鏡を覗き込んで暮らした。この課外の活動に加えて彼の正規の仕事、プラス、ホルステッドの度重なる不在中の外科クリニックでの責任は彼を疲労状態に陥らせた−−−非常に疲れて歯科医を受診しその処置中に眠り込んでしまうほどで−−−「歯科医は面白がり、僕は満足です」と母親に書いている。
彼の家への手紙は次第に回数が減り、また短くなってきた。それに引き換え彼の父親の手紙はリタイヤメントの余暇で逆に長くなってきて、励ましや、ユーモアや、書籍についての興味の項目や医学寸評、彼が気づいた社交的な集まりのことなどぎっしり詰まっていた。それらの中で逸してはならない一つに6月9日のネッドとメラニーの結婚式があった。彼はハーヴェーに書いている。:「どうぞ、急いでできるだけ早く帰ってきてもらいたい。雨がちの寒い春のお陰で庭の草もまれに見られる木の葉も濃い緑だ。自分は家庭内の会話はまったく聞いていない[カーク博士は幾分難聴になっていた]、しかし自分が知ったところでは服の新調や装飾品が主たる話題だと推定される。ネッドは結婚衣裳の準備にはいささか辟易し、勇敢に耐えているようだが、早く済んでしまえばいいと思っているようだ。」
クッシングは6月いっぱい一月の休暇を取った。結婚式に出たほかにエール大学の第6回クラス同窓会に出席してそこで卒業生チームと野球をした。それから彼はボストンへ行ってM.G.H.を訪ね、父親に医学的見地からボストンほどよいところはない、知る限り比肩するところはないと書いている。彼は特にX線の進歩に関心を示した。ホプキンス病院では彼が一人でX線を取り扱っていたからである。
この夏にはノース・カロライナ州ハイ・ハムプトンの夏の家に行っていたホルステッドとの間に通信を交わしているが、このことは彼らがより接近したことを示している。クッシングはいろんな患者について報告し、いくつかの改良点−−−病院付添い人の食事の改善と賃金の値上げ、エーテル麻酔回復期患者の新しい扱い方、病棟運営のより組織的方法などを提案している。ホルステッドは非常に忙しい中にも手紙を書いてくれたことに感謝し、さらに付け加えた:「このような示唆と希望に感謝し、悪い点があると思ったら自由に遠慮なく批判してもらいたい。」
9月になってクッシング自身ホルステッドの患者の一人になってしまった。月の遅く、急性の腹痛が起こり虫垂炎と診断され、直ちにホルステッドに手術を懇願した。虫垂切除術は、当時10年しか経っておらず、いくらか敬遠されていた。クッシングはボストン(虫垂炎はここで、レジナルド・H・フイッツ博士によって初めて病理学的実体として1886年=明治19年に記載された)で手術をみたことがあった。彼自身2−3週間前に虫垂切除術を行い、続いてその患者を腹膜炎で失ったばかりだった。それゆえ危険は承知していた。しかしながら9月28日に行われた手術は成功し、回復も順調であった。彼はケイト・クロウエルに美しい時間を持ったと書いている−−−完全に回復し、文字通りバラ[病棟の子供たちから彼に贈られた]の寝床の中で暮らしています……病室の窓の外側には大きな果物籠が、衣装戸棚の中には極上のワインが、テーブルの上には読みたい本がすべて揃っています。」
ホルステッドとオスラーが毎日父親に電報を打って病状を知らせた。ネッドはすぐに見舞いに来たが、カーク博士は来るのを延ばした。「お前が少し歩けるようになり、一日の間のしばらくは少なくともベッド以外のものを羽織れるようになったと聞いて喜んでいる」と書いている。「自分は月曜日か火曜日にお前のところへ行きたいと願っているが……おそらく観光をするゆとりはないものと思う、ただ、自分の息子を家に連れて帰りたいだけだ。」
この帰省中のある集まりでクッシングはついにケイト・クロウエルに結婚を申し出たが、二人ともそのことを誰にも言わなかった。クリスマスの2日前に彼は彼女に書いた:「僕はクリスマスの準備をしなかったので、非常に気まずい思いをすることでしょう。人がいろんなものを贈ってくれてギフトを交換するのがクリスマスのひとつの良い風習であるのに。そこで、この手紙と僕の愛と、出来てくる写真とが僕のケティへのささやかな贈り物です。しかし、2番目のものは、僕が知るよりも前からずっと貴女のものでしたからギフトには当たらないかもしれません。」
年末には彼のよき友マックス・ブレーデルから暖かい情の篭った手紙(クリスマスの贈り物へお礼)が来た。彼は芸術家でケリー博士に説き勧められて生まれ故郷のライプチッヒを見捨てて1894年=明治27年にボルチモアにやってきた。ホプキンス病院の同僚たちに画家であり音楽家であったブレーデルはその豊かな創造的な才能をもたらした。お返しに彼らは彼に解剖学と外科学を教えた。だから、彼が有名になった医学的絵画は科学的正確さと芸術的美しさに秀でているのだ。この単純で、朗らかで、友好的な男とクッシングは大いに気があった。彼らはドイツ語と英語を教えあい、そしてクッシングは描画を彼に習った−−−この事実がクッシング自身の医学的描画の完成に大きく寄与したのである。
虫垂炎からの回復期の間に、彼が徐々に集めた教科書や誕生祝いやクリスマスにもらった書籍に貼る蔵書票を作ることに関心を持って来た。この年、母親からは昔のヴァージニア州について書いた本を、兄のウィリーからはホームズ博士の生涯と書簡の本とフランスの外科医アンブロアス・パレの伝記をもらっていたのである。オスラー博士の図書室をしばしば訪ねて彼の書籍を所有する誇りが次第に大きくなってきたのである。彼は自分で蔵書票のスケッチを描いて、12月遅くドット・ミッド会社に送った。1898年=明治31年初頭、有名なデザイナー、エドウィン・デイヴィス・フレンチがスケッチを基に図案を仕上げ、続いてクッシング家全員が使用するように印刷された。それは小さな長方形で、クッシング家の家紋,クッシング家の家訓(virtute etnumine…勇気と神の助け)、頭蓋骨と神の使いマーキュリーの杖の一つの形が単純にデザインされていた。さらにクッシング家の医師すべてのイニシャル:デヴィッド、イラスタス、ヘンリー・カーク、ネッドそしてハーヴェーと学位をとった日付も一緒に記録され将来のクッシング家の医師も書き加えられるようになっている。
1月の早い時期にクッシングはホルステッドに夕食に招かれた−−−滅多にない出来事であった。「教授」は美食家でその夜のメニューには細心の注意が払われていた。薄いトーストに載せたキャビア、コンソメ・スープ、牡蠣のロースト、すっぽんのシチュー、アスパラガス、ジェリーに入ったうずらとフオアグラのパテ、オムレツのスフレ、アイスクリーム、クラッカーとカマンベール、果物、ケーキにその午後煎ったばかりのコーヒーであった。この料理にホルステッド夫人のお祖父さんのセラーからのレア・ワインが添えられてあった。お祖父さんは金持ちで地位の高い南部の上流階級の人であった。
この宵は翌月クッシングがグッドウイリー家を訪問中のケイト・クロウエルを連れて訪問した午後と鋭い対照をなした。その際には古い骨董的な家具で満たされた立派な石造りの家を暖めるために暖炉の火が二つ燃えているだけであった。ホルステッド夫人は犬の世話を見ていたので汚い肉屋のエプロンで若い客に会った。「ホルステッド夫妻は実に変わっています。ほかの人々とは非常に異なっているので、その変わったところが、実に興味深いのです。」とクッシングは母親に書き送っている。「フィクション−−−多分ディッケンスあたりの小説に出てくる人物と並んで考えたくなります。」
ケイト・クロウエルがボルチモアを訪問して帰るやクッシングは彼女の母親に二人の結婚に同意してくれることを望む手紙を出した(父親はすでに他界していた)。クロウエル夫人の優しい賛意が届いたときには深い幸福感で満たされ、この気持ちが3月15日ケイトに書いた手紙に表れて、いつもより彼の心情のドアを広く開いている。
わが最愛の乙女よ−−−
僕はいつものように残り物の遅い昼食を済ませてちょうど階上に戻ってきたところです。この2日間手術に次ぐ手術で大変な日でした。昨日は朝10時から午後7時半過ぎまででした。手術室で一番良いナースの一人が自分の手を怪我しました。腱を切ってしまい、哀れなことに逆に手術台に乗せられて麻酔や手術に伴うこと一切を学ばなくてはなりませんでした。彼女はよき兵士のように耐えました。そして僕が経験したように−−−僕はもうすっかりいいです−−−何時の日か良い体験であったと思うことでしょう。昨夜はこんなわけでみんな遅くなりました。
仕事の話ばかりで御免なさい、ケティ。でもそのことで頭が一杯です。人にはわかってもらえません。僕が若いにもかかわらず手術している数は僕の同学年の仲間の一人が数年かかってやる数です。それは驚くべきことです。主任教授は滅多に手術しません。今日は教授のプライベートの患者を全部手術しました。どの患者もうまく行きました。幸運なことに最近の手術はうまく行っていますが、何時の日か失敗が来ないように話すのさえ怖いくらいです。
これも貴女のお陰です。僕は非常に幸せです。僕はたくさんの新しい考えが浮かび新しい感覚を覚え−−−まるで世界が変わってきたように思えます。僕はこんな強さを感じたことがなかったし−−−困難に打ち勝つ自分の能力を確信したこともありませんでした。貴女の助けを得るようになってから万事うまく行くようになりました。このささやかな告白を気になさらないようにしてください。」
1週間後彼は「大学院特別講座」と印刷したリーフレットをケティに送った。それにはクッシング博士の外科学講義が5月1日から7月1日まで月曜日と水曜日の午前8時30分に行われることが示されていた。この講座は実地医家のために開かれる「再教育」講座でかなり遠隔地からも参加者があった。「このスケジュールをどう思いますか?ケティ。どうやらあれは[二人の結婚式のこと?]7月まで駄目のようです。1989年=明治31年5月1日から7月1日までは朝早く起きなければならないことになりました。おそらくこの講座には参加者がないと思いますが、これを済まさないと貴女のところに行けません。僕が半白の髭の老人たちを連れて病棟を早足で回り、手術を彼らに教えているさまを考えてみてください。」
この外科学の大学院コースのほかに、この春は彼にいくつかの重要な事件をもたらした。
3月には甥エドワード・H・クッシング生誕のニュースがあり、ネッドとメラニーは短く「パット」と呼ぶことに決めたという。4月にはメイン号の爆破事件によって引き起こされた西・米戦争の宣戦布告があり、クッシングの友人多数が出征した。残った彼はいささか落ち着かなかったが、新しい関心−−−胆嚢−−−が彼を占め、動物での実験的研究を行った。彼はまた、前年の秋に始めた研究の成果を書き上げた。不適切なエーテル麻酔の結果、数名の死亡例がでたので、コカインを適当な神経幹に注射することによる局所麻酔の可能性を研究し始めたのである。コカインをこういう目的に使ったのはもちろんホルステッドがすでに広く研究しており−−−しかも大きな犠牲を払っている−−−しかし、印刷発表の仕事はクッシングに知られておらず、ホルステッドが彼の努力に無関心のように思われたときいささか困惑し失望した。彼は第一例を肩での切断に用いた。後、股関節やヘルニアの手術に用いて成功した。ヘルニアの例が彼の論文の基礎になっている。彼はそれを1898年=明治31年5月8日ジョンス・ホプキンス医学会で発表した。
ジョンス・ホプキンス医学会はジョンス・ホプキンス史談会やジョンス・ホプキンス病院公報などとともに、病院が開設された初年度から出発している。ウェルチとオスラーが設立に動き、ケリーとホルステッドが忠実に支持した。
この人たちの知恵は研究を始めたばかりの若い人々にこのように発表の捌け口を与え励ます意味からも1000倍にもなって返ったのである。というのはこの三つはホプキンスの旺盛な精神をプロモートし広めるための強力な機関となったからである。各月の第一と第三月曜日には医学会に、史談会には月に1回定期的に大勢の熱心な人々が円形講堂に集まった。これらの会合は病院の異なった部門の人々が互いに知り合う機会を作り、病院の壁の中でどんな臨床的な、また科学的な仕事がなされているかを知るのに役立った。関心は高く、会合はしばしば予定の8時半を超えて10時まで及んだ。また主任教授たちがどんな天候でも必ず出席したのも大いな励みになった。しばしば他所のメデイカル・センターや外国から招かれて講演をしたり、討論に参加したりする人もあった。そのような場合には大抵メリーランド・クラブに晩餐の予約がされてあった。
この春はクッシングにとっての日々は次々と流れ、目を閉じたかと思うともう次の日であった。彼は父親に環境変化が必要だと書いた−−−連鎖状球菌の感染で2、3人の患者が死亡し自分の受け持ち患者ではなかったけれども、いつでも「連鎖状球菌の悪魔ども」が連なって見え眠れなかった。その考えから離れることができなかった。「人々が病気になると僕はその人たちと一緒に生き、人々がよくなっても僕はまだ落ち着きません」。しかしながら4月に気管支炎を患い、独りでオールド・ポイント・カムフオート(ヴァージニア州)へ保養に行った。その後彼の奮励的スケジュールの2度目の中止をとり、彼のよき友、カナダ人のオスラーの内科でのレジデントであったトーマス・マッククレーと連れ立ってヴァージニア州のフレデリックスバーグ(リー将軍のフレデッリクスバーグの戦いで有名)へ行き、休養をとり気分転換を図った。
7月10日から8月8日まで彼は本格的休暇をとった。まずボストンへ行きここでは「病院歩き」に最も多くの時間を潰した。次いでバークシャイアーのリノックスに友人のチャピンを訪ねた。次にニューヨークにグルスヴナー・アタバリーに会いに行った。最後に7月23日にクリーヴランドに向かい翌日、彼の母親、ネッド、メラニー、赤ん坊パット、それにケイト・クロウエルらと合流して湖水地方への旅に出た。
ボルチモアに帰って1週間後に母親から手紙が来た。「あなたからのヘンリー・カーク・クッシング博士宛の短い手紙ではあなたの近況はよくわかりませんでした。同名夫人宛の手紙でも何も読み取れませんでした。クリーヴランドのこのほどよい気温、すがすがしい日中と涼しい夜を、いるまもなく、ボルチモアの灼熱と取り替えなくてはならないとは気の毒ですね」。彼女はこの手紙をこう結んでいる:「名前は言わない方がいい、ある夫人から聞きました。彼女がハーヴェーとケイト・クロウエルとが婚約した−−−あるいはそれに近い噂を聞いたというのです。あなたの母親の当てこすりをあまり憤慨しないで頂戴。[賢者には一語にして足りる]ですよ。愛する母、ベッシー・M・クッシング」。ケイトは湖水地方への旅では家族同然であったがクッシングは二人の間をまだ家族には明かしていなかった。事実、ケイト・クロウエルはクッシングが医学という嫉妬深い女主人を追いかけている間、数年は待たなければならなかったのである。
8月13日マニラの陥落のあと戦いは終わり、軍隊は引き揚げ始めた。敵よりも恐ろしい敵として腸チフスがはびこった。クッシングは8月の遅く列車に載せた患者を連れ帰るのを手伝いにアラバマに送られた。同じ目的の旅を数回にわたって行った。この際初めて彼は腸チフスによる腸管穿孔に接した。そして、行った手術例を2編にまとめて報告し大いに認められた。英国の著名な外科医レジナルド・ハリソンがクッシングに書いた:「[腸管穿孔に対する開腹術]論文別冊に多大の感謝をします。それは非常に優れた外科の仕事であり、また外科学に大いに役立つでしょう。貴下の第1例は私が知る限りではユニークです。報告書全体も申し分のない出来栄えです。外科学の私の分野がまったく異なった方向であることを遺憾に思います。」
彼の父親も論文のコピーをもらって非常に興味深く読んだとお礼を述べ、さらに最近始めたベンジャミン・フランクリンの肖像画や写真やその他の蒐集の進み具合について述べている−−−「君のお母さんは笑っているが、自分にとっては彼女にとってのマット作りのように興味深い。」
秋になって、ヴァージニア州フインカスルから33歳の農夫がホプキンスに入院してきた。彼はその年の3月にも来院しており、経過観察の上、退院した。10月26日に消化性潰瘍からの出血というみなし診断で外科レジデントのクッシングのところへ手術のため回されてきた。彼は農夫の症状は最近購入して読んだオールバットの「外科学体系」から脾臓性の貧血であると考えた。彼はうろたえながらオスラー博士のところへ行って、自分の信ずるところを述べて手術に際し幽門部の潰瘍がなかったら患者の脾臓をとってもいいかどうかと聞いた。オスラーは自分がもっともよいと思うようにやれと言った。
次の日、クッシングは最初右側に切開を加え、何も見出さずに次いで新しい切開から患者の脾臓を取り出した−−−ジョンス・ホプキンス・ホスピタルでの最初の脾臓摘除術であった。
患者は回復した。2年後クッシングあてに下記のように書いている。
「先生、商売上手な人が病院に手紙を書くように勧めたので手紙を書きます。私の身体の手術跡ほど病院の宣伝になるものはありますまい。前からわかっていたことですが、わたしがこんなによくなったのを見たら、きっとたくさんの患者を病院に送ることができると思います。」
クッシングが彼の力を宣伝する機会の申し出を受け取らなかったので、2年後この男は自分が回復したと称して売薬の行商をした。
腸チフスによる穿孔に関する先駆的な仕事はさらに彼の細菌学における関心を高め、関心はウエルチとその門下生−−−サイモン・フレクスナー、ノーマン・グウインやルイス・リヴィングッドにより激励された。実際彼らの影響は浸透的であった。クッシングは後年この時期のことを語る記事で「ホプキンスでの古い日々には誰しもなんらかの形で細菌学の仕事をしペット細菌を培養していた。ヤングが培養していたのはいま思い出すとある日はバチルスでほかの日は球菌になり、連鎖状になったり対になったりでみんなで元祖アダム・バチルスと呼んだものだ。」クッシング自身も一つのバチルスに関心があった。それは遷延した発熱たぶん腸チフスのあと、肋骨の膿瘍を手術した若いネグロの患者から得たものだった。彼はこの道の権威テオバルド・スミスやウオルター・リードなどと意見を交わし彼のバチルスに「O」の名をつけた。
この仕事は4行のタイトルを持つ論文となったが、さらに細菌学的論文(後に2編も出版した)について批評を乞うたサイモン・フレクスナーとの間に友情を芽生えさせた。
7月に手紙の日付を1週間先にしてしまった母親をからかって−−−その日はめったに見なかったかあるいは何の日か知っていたから見つけるのに大変だったといっている。
「この夏は学生にまとわりつかれずに済んで厳しいけれども非常に有益に自分の目的を探すことができそうです。朝の回診、毎日の手術、午後の研究室での仕事、できる場合には報告書、毎晩ブレーデルとドイツ語のレッスン、さらに回診、読書、深夜まで執筆、消灯までの時間はサッカレーを一章読みます。これらを合わせると結構忙しかった一日で、夜の急患が来ないことを願いながら眠りに就きます。グッドウイリー家が去ってからというものもはや病院から離れたことはありません……僕はこの秋海外に行く計画を持っていますが−−−10月か11月になるか、今度の日曜日になるかその次の次になるか何時になるかわかりません。
ハーヴェー」
9月2日にクッシングは彼のガッセル(半月)神経節切除の第一例を行った。顔面の片側に急速に起こる耐え難い痛みの発作−−−三叉神経痛にかかった人は顔面の皮膚に分布する神経の神経節の刺激による犠牲者だということは明らかになってきていた。フイラデルフィアの神経学者W・G・スピラーがこの神経節を外科的に切除すれば痛みの寛解が得られるに違いないと示唆していた。クッシングはその示唆に対して実際に試みた最初の一人であった。彼の初期の症例で寛解は非常にドラマチックであったので国中の多くの場所からこの病気に悩む患者の紹介があった−−実際この手術が彼の生活費を支える一方で、神経外科の利益の少ない面を発展させた。
新年には快い喜ばせの驚きがもたらされた。ウエスターン・リザーブ大学の外科学教授に就任の申し出である。母親も父親も彼が故郷に帰ってくることを喜んだが、父親はある程度の余裕を与えた後、最後に今居るところのほうがいいのではないかと告げた−−−「問題は君のタイトルとか地位がどうこうではない;大事なことはいい仕事をする機会でありその仕事を認められることだ」と。ウイリアム・ウエルチは祝福の心温まる手紙を書いて現在のホプキンス大学では将来どんな地位に付かせられるか知らないが、心底彼らと一緒にとどまることを望んだ−−−そこでそのようにすることに決めた。
彼の仕事についての詳細をケイト・クロウエルに知らせた:「ケイトあなたは今までにないすばらしい乙女です。自分の右腕を与えてでも助けたい男を失いかけているので非常に悩んでいます。僕はあなたが必要です。」2月遅くにまた:「48時間の間振り回されていました。フイラデルフイア・メデイカル・ジャーナルのために長い論文を迫られて書いていました。今夜10時までに書き上げなければなりませんでした。速記者が一日中ここにいて、トーマス(マックレー)が原稿を直してくれました。多少の恩恵はあっても二度とこんな馬鹿げたことは−−−こんな眠たいことは結構です。」
人に認められようとして、また他の人よりも少しでもぬきんでようとして、自分自身を絶え間なく駆り立てて、しばしば彼の強靭な忍耐力を超えることがあった。ぴんと張り詰めた神経、普通の外科医ならまだ見習い中の年齢でたくさんの症例を独立して手術するまれな機会を通じて得られた確信とが結びつき尊大で性急に近い自信となり、しばしば共同作業者それも教授との間すらも隠しおおせぬものとなった。エール大学看護学部の名誉学部長エフイー・J・テーラーは当時ジョンス・ホプキンスの婦長をしていたが、彼が気難しく看護婦やスタッフには人気がなかったことを思い出している。しかし、彼女はまた彼が患者には絶対に献身的であり患者のためになることならスタッフの時間と苦労のかかることを何でもやらせて、やさしくいたわったことを生き生きと回想している。このため同僚には好まれなかったが、彼の診療に委ねられた人々の間では絶大な信頼と賞賛をもたらした。
3月にケイトに書いている:「6月にはここを離れ、橋は燃えて帰れないことになるでしょう。教授と私はまったく馬が合わないのです。思うに私が困惑らしいです。彼は10日以上も現れません。ミッチェルが病気のところに、ほかの連中はあのとおりですから仕事がつらいです。ですから鬱病ですがまもなく振り払います」。ホルステッドが病院に現れないこの厄介な日々の間に、ホルステッドはクッシングに手紙を送っている。クッシングはこれらの手紙を大切に保存していたが、数箇所に彼の焦燥をコメントしている。
最初の手紙は:
親愛なるクッシング。
今日午前中の私の診察はフイニー博士が代わります。また風邪を引いてしまったので家に居たほうがいいらしいので休みます。昨日の我々の患者が生きていることを望みます。
金曜日8時30分
私の甲状腺腫の患者が来たら、来週の金曜日に来るように言ってください。費用は私が払います。
手紙の書き出しの余白にクッシングは書いている「教授は木曜日夜フイニー家で晩餐」と。末尾に書き加えて3月16日、金曜日朝、患者に話して自分で費用を払った。」
土曜日にホルステッドから風邪を引いた上に頭が割れるように痛むので手術が出来ないと書いてきた。「もし今日の予定の患者たちが月曜日まで待てないというなら、代わって手術をしてください。敬具、W・S・ホルステッド。」手紙にハーヴェーは書いた:「テーラー夫人は待つことを選ばなかった。」結核性腹膜炎を伴った大腿ヘルニア。
水曜日にホルステッドからもう一通の手紙が来て、クッシングにもう一人の患者の来院を告げ、彼女の取り扱い方が指示してあった。上の余白にクッシングはペン書きして:「教授は月曜日に斜頸の手術をした。胃の症例(3月15日)以来初めての手術である。彼の不在中、一日平均6例の手術をしたのでどうにか遅れを取り戻した。」そして再び「親愛なるクッシング。明日は貴兄に手術室を使ってもらいたい。というのは自分が現在興味を持っている症例の手術は一両日様子を見ることにしたいからである。追伸、D病棟の片腕の少年の書類を送る。」これについてクッシングは:「いかにも教授らしい手紙だ−−−一週間も手術していない。片腕の少年は先週退院している。」
春になるとクッシングのヨーロッパへ旅する計画が再び彼を占め始めた。トーマス・マックレー、サイモン・フレクスナー、オスラー家の人々、それにもう一人のホプキンスでの友人ヘンリー・バロウ・ヤコブスなどみんな海外へ行くことになっていた。クッシングは医学校に在学していたときほど熱心ではなかったが父親とネッドに勧められ、オスラーとウエルチにもそろそろ行くべきときだと納得させられた。クッシングがヨーロッパの外科医で知っているのは一人(スイスのコッヘル)くらいで、ヨーロッパに行ったからといってホプキンスでホルステッドから学ぶだけの外科技術を学べるかどうかさだかではなかった。さらに、彼は腸チフスによる腸穿孔、脾臓摘除術、細菌学、三叉神経痛の仕事を進め、それらの論文から得られた世評を固め、自分自身を確立して結婚をしたかった。しかし、またもや医学が勝ってケイト・クロウエルは忠実に待つことになった。
1900年(明治33年)6月23日、父親からもらった新しい立派な旅行用トランクと銀行の信用状、ウエルチからロンドンの有名な外科医ヴィクター・ホースリーに宛てた簡単な紹介状一通を持ってクッシングは英国に向けて出航した。(つづく)
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