第8章 ジョンス・ホプキンス・ホスピタル
ボストンを離れた最初の日クッシングは虚脱し孤独であった。人が大勢いて、仕事のびっしり詰まった病院生活に馴れていたのに突然怠惰な休暇への急激な変化は彼を落ち着かなくし不安にした。しかし、彼の従兄エドワード・ハーヴェー夫妻とその娘メラニー、それに兄のネッドたちは大いに休暇気分で、間もなくノヴァ・スコシア、プリンス・エドワード島とガスペ地方への旅行に出かけようとしていた。クッシングもやがて朗らかになった。
ハリファックスからバデックへ赴いて、そこでグランド・ナロウズ・ホテルに宿泊し、くつろいだ。そこでは興ずることが多かった。まずヨットに乗ったときに従兄のエドがズボンをぬらして大笑いし、みんなを起こそうと朝部屋を覗き込んだホテルの主人の頭にネッドがソーダ水を一瓶ぶちあけたときも大騒ぎであった。ハーヴェーが朝早く目を覚ましてネッドの毛布を引き剥がして行ったので、ネッドはハーヴェーが帰ってきたものと思い違いをしたのであった。いつものようにクッシングは自然の光景の美しさに心を打たれた。彼は色彩と色調に耽溺した−−−「落日は絢爛たるものでした−−−西の空には羊毛のような雲の塊があり、エリフ・ヴェッダーの絵のように赤と純金の大きな渦をなし−−−色彩は刻々と変化するのです。両側の青い丘陵と、沈み行く太陽の下で次第に暗くなる水面に映ったダーク・グリーンの山影が{驚くべき}対照をなしていました。」
ノヴァ・スコシアから一行は「海岸は低く、土壌は赤く、庭園のような外観を持つ」プリンス・エドワード島へ渡った。草花の美しさ、
珍奇な格好のイソ鴫のおどけた身振り、よく実ったこけもも、たっぷりのアイスクリーム、
入り江のビーチでの水泳−−−が彼らの日々を楽しみで満たした。次いで一行はガスペ半島を訪れた:「わたしたちは今朝早くガスペ湾に入港しました。ガスペ半島の高い山々−−−アパラチャ山脈の端は白い霧のヴェールで包まれていました。」ここから一行はセント・ロウレンス河を下った。
ケベックではオテル・デイユを訪問した。そこの外科病室は燃え尽きた蝋燭の臭いがして受胎告知の祝祭で聖歌を歌う尼僧たちがクッシングの目に涙となんとも言えない悲しみをもたらした。市内を見物した後、何マイルも続く輝いているセイタカアワダチソウ、丈の高いピンク色のスパイク(ラベンダーの一種)、野生のヒヤシンスや白いセイヨウノコギリソウの中を通り抜けての陸路の旅をした。混み合っていないホテルではその夜、彼はメラニーと二人っきりでひっそりした舞踏室で踊った。
2日後、8月19日、ネッドとハーヴェーは二人のガイドを連れてカヌーでロベルヴァルからチクチミへ向けて出発した。9回も陸路でカヌーを担ぎ、さらに5マイルほど板張りの4輪馬車に乗ってシンショウ川に着いたのはもう夕暮れであった。そこでは木材切り出し人夫の一団が赤々と燃える焚き火を囲んでいる光景がまるで絵のようであった。ガイドたちが古いフランスの歌を教えてくれた−−−「非常に古い−−−上品なフランスの歌です−−−フランスにはかつてそのようなことが在った様です−−−特にペーソスを帯びていて通常4行詩になっています……折り返しの合唱のいくつかはふざけたものがあって、わたしたちもあらん限りの声を出して一緒に歌いました、大自然以外に迷惑するものは誰もいないのですから。」
2、3日後、モントリオールで、彼はロイヤル・ヴィクトリア病院、オテル・デイユ、モントリオール総合病院を訪問した−−−後者がマサチューセッツ総合病院と比較しても遜色がないことを見出した。トロントからナイアガラを抜けてクリーヴランドに帰った。一月ほど我が家にいて、クッシングは彼のキャリアの次なる段階−−−大外科医ウイリアム・ホルステッドのレジデントを始めるためにボルチモアへ旅立った。
1890年代のボルチモアはやがて消え去った時代の気取りと優雅さの中で推移していた。町のゆったりとした上品な生活振りは野心満々の北部人にとっては理解しがたいものであった。市場で南部商人の意気地のない商売振りをみるにつけハーヴェー・クッシングの、ヤンキー魂はいらいらしてきた。彼はまた、美食家のボルチモア人の贅沢な食習慣にも好感を持っていなかった。彼は母親に、朝食に焼き菓子とソーセージを一緒に食べ、チキン・フライまでとっていると憤慨している。しかし、こうした非難も、彼を病院食から避難させてくれるいかなる機会をも受け入れる妨げにはならなかった。
こんなことだけが彼の訴えではなかった。街の人々はのろまで、建築は垢抜けしないで、単調な赤いレンガの家並みで玄関には白い三段の階段がついて「まるで連鎖状球菌のように」どこまでも続き−−−病院の基準も職員も悲しいことに組織だっていない。この情けない構図を全うするべく、彼は壁にネッドの写真が飾ってあるだけの広いむき出しの部屋で本箱にわずかな書籍を並べ独りきりだった。将来はよく考えても明るいものではなさそうだった。最終判断を下す前にもう一度忍耐強く理由ある試みをとるべきだと父親が諭しているが、からかって言っているのか憤激して言っているのかわからない。
クッシングが適応に苦しんでいるさなかにクリーヴランドからボルチモアに引っ越してきていた彼の友達メアリーとバーニーの父親グッドウィリー氏に出会った。彼はケイトに告げている:「グッドウィリー氏がいなかったら、ひどいホーム・シックにかかっていたに違いありません。ド・ウォルフ・ホッパーを観に劇場に行きました。そして、今夜一緒に食事します。」グッドウィリー氏に教えられて彼はボルチモアの二つの名所を知った−−−「ドルイッヂル」(ドルイド・ヒル)公園、そこでは樹木の立派なことに驚嘆した。次は大きな公設市場で魅惑的な諸産物の列、なかには「百ヤードもあるロープにやせウサギの皮を剥いだものがぶらさがっていて、その後ろに歯をむき出した黒ん坊たちが並んでいるのです」と言うものまであった。初めて市場に行ったときに、懐かしい友、北部産のスパイ林檎を見つけた。袋いっぱい買った中から一つを取り出してかじりながら家路についてやっとアット・ホームに感じ始めたのだった。
ジョンス・ホプキンス病院は大学と病院を造るようにと700万ドルを残して死んだ変わり者で孤独な独身者ジョンス・ホプキンスの死後16年の1889年(明治22年)に開院した。
大学は1876年(明治9年)に完成した。当時最も進歩的な教育者のダニエル・コイト・ギルマン(彼はエール大学シェフイルド科学院の教授であった、のち大学の図書館長)が25年も学長を務めた。彼は最初の教授団に6人の有能な教授を選んだ。(註1:バジル・L・ギルデンスリーヴ、ニューウェル・S・マーチン、ジョージ・S・モーリス、アイラ・ヘムセン、ヘンリー・アウグスタス・ハウランド、J・J・シルヴェスター)
そして、大学と医学校は創立後、日は浅かったけれどもすぐに古い最良の大学と肩を並べるようになった。
病院の建築には12年を要した−−−軍医総監図書館のジョン・ショウ・ビリングスの指揮のもとに建設されたが、彼は南北戦争以来各地の陸軍病院の建築に長い経験を持っていた。
計画は従来の病院計画と建築に徹底的な改正を加えたものであったが、「真の病院とは」とビリングスは理事会に言った。「病院の動く活気ある魂、病院で働き、その性格を決定するのは、その中に注入されるべき頭脳です」と。(註2:病院計画に面白い項目があり、ビリングスが次のように述べている「女性の看護師が器量よく健康な婦人であった場合、人はたまたまこれを強く誘惑しようという衝動に駆られることがある。女性が働いている病院ならどこでも起こりうることだ。しかし、こういう機会を排除する方法−−−建設計画に提案した事項{大きなクロウゼットを造らないこと}は試みてみる価値があると私は信ずる」)続いて、教授団の構築が病理学の主任にウイリアム・H・ウェルチを任命することから始まった。これはアメリカの大学では初めての病理学の専任教授であった。病理学は比較的新しい医科学の分野であったのである。
ウェルチはホプキンスに実験科学が高度に発達している偉大なドイツの研究室の技術と伝統をもたらした。彼は当時最も有能であった数名の病理学者と生理学者のもとで勉強したのであった。(註3:ルードウイッヒ、ワルダイエル、ホプ・セイラー、クロネッカー、コッホ、コーンハイム、ハイデンハイムおよびフォン・レックリングハウゼン)さらに1884年(明治17年)ホプキンスに任命された後も、病院の建築中1年間ドイツに戻って研究した。
新任の病理学教授は丸顔の陽気な青年で−−−いつもすきのない服装をしていて−−−彼のもっとも優れた長所の一つである限りなき好奇心とあわせて卓抜した教授能力を持っていた。彼の鋭い知性と魅力ある人格に加えて、彼は人をいかなる原因であれ、からかうことが出来る方法といまや直面している組織作りの仕事のための特によく適した力を持っていた。ヨーロッパから帰ってきたあと、ウェルチは医学校の教授団の問題に真剣に取り組んだ。かたや研究所も開いたので直ちに有望な若い医学生たちが集まってきた−−−黄熱病の原因を発見したウォルター・リード、長い間ロックフェラー研究所長を務めたサイモン・フレクスナー、外科学の教授として残ったウイリアム・S・ホルステッド、ハーヴァードの病理学教授になったウイリアム・T・カウンシルマンである。
ホルステッドはエール大学1874年(明治7年)卒業の外向性で陽気な学生であった。内科・外科医科大学(コロムビア大学)を卒業したあとベルビュウ医科大学の教師として嘱望されていた。いまや、健康上の、ウェルチだけが知っている事実−−−コカイン嗜癖と戦っていた−−−(註4:ホルステッドと彼の3人のニュー・ヨークの共同研究者はコカインが習慣性を持つことを知らないまま、自分たちを検体として局所麻酔の実験をしていた。ホルステッドだけが嗜癖に打ち勝って有益な人生に復帰し得た。)引っ込みがちの生活を送っていた。彼は研究所に引きこもって思索と探求にふけっていた。そこで、外科学と内科学のために独創的で重要な貢献を数多くなした。彼の外科手術はひとつの芸術作品であった。たとえば彼がセットした各症例の綿密な検討、卓越した手術手技ならびに術後の組織の検査室での綿密な検査−−−は長年にわたりアメリカの外科学に影響を与えた。ゴム手袋の使用を導入したのも彼であった。彼の手術室手洗いナース、後に彼の妻となった人のデリケートな皮膚が強い消毒液で「手洗い」をするたびにいつも荒れてしまうからであった。
教養があり如才ない人物ホルステッドは、ほとんど毎年のようにヨーロッパに旅行していた。シャツ類をパリにまで洗濯に出し、まれに社交界に出席するときにはホストとしても賓客としても上品であったが、多くは世捨て人の生活を送っていた−−−ために同僚たちや特に新任の助手レジデントたちにとっては不可解な人物であった。初めの間、二人はお互い尊敬の念を持ってはいたが、ついにクッシングの側はあまり暖かい親しさを感じなくなった。
次にホプキンスのスタッフに任命されたのは、あの卓越した臨床家であり、教師であるペンシルヴェニア大学の内科学教授ウイリアム・オスラーであった。中背で黒い瞳が輝きオリーヴ色の肌を持つオスラーは人をひきつける大きな磁力を持っていた。と言うのは、
彼のあくまでも陽気で、人間への深い同情と理解に加え、時にはくだけて人生を楽しむ態度で、あらゆる年代の人々を魅したのである。毎朝のように彼が病院に入るやすぐに、インターン、レジデントや看護師たちが彼の周囲に集まった。「レジデントと歩調をあわせるとすぐに [フロック・コートの裾をなびかせて] 円堂のところにある大きな大理石のキリスト像のあたりから彼の病棟に向かう長い廊下に向かった−−−ほかの人々は全部一列になって従う。」
彼の絶大な精力と情熱を惜しみなくわけ与えた。オスラーは患者のベッドサイドで学ぶ(研究室で学ぶドイツ医学の伝統と対照をなしている)という偉大な英国医学の伝統を具現した。ヒポクラテス以来、近代の基本的代表人物はトーマス・シドナム(1624−89:寛永元年―元禄2年)であった。学生を病棟に導き入れ、教科書で学ぶのと同時に医学を学ばせることを実施し熱心に提唱したのはオスラーが最初であった。彼の病棟回診は有名な出来事であった。まず患者や随行者たちとの陽気な挨拶と冗談の間に心に固く止まる事実として鮮明に図を見るようなやりかたで教えるのであった。彼の有名な教科書「内科学の理論と実地」はこの頃に書かれたものであるが、半世紀以上にわたって医学生のバイブルとなった(1959年代で84刷に達している)しかし最終的には彼の医師としての貢献よりは医学的ヒューマニストであり書籍の愛好者・蒐集家としての評価の方が恐らくしのぐだろう。
4人のホプキンスの博士たちの最後の人物はハワード・A・ケリーであった。サーガントの絵によって不朽とされた彼は1889年(明治22年)に、やはりペンシルヴェニア大学から婦人科学および産科学の教授として赴任した。彼は音に聞こえた臨床家であり、また優れた外科医であり、見学するには彼の年長者ホルステッドの手術よりも興味があった。彼は手術室の技術革新を生み出し、精力的で独創性に富み、ショウマン・シップのセンスをもっていて、いつも多数の学生をひきつけていた。ウェルチともオスラーとも異なる性格ではあったけれども、彼もまたもっとも魅力的な人柄であった。ドラマじみたことを好むにもかかわらず、彼は敬虔な人で信心深くしばしばスタッフ、ナースや見学者がいれば見学者まで呼び集めて短い言葉ながら手術前のお祈りをささげるのだった。
この4人を指導者として、病院の前途は洋々たるものであった。1889年(明治22年)病院のドアを開けたときには、みんな若く−−−ウェルチが38歳、オオスラーが40歳、ホルステッドが37歳、ケリーが31歳であった。4年後に医学校が開校したとき、入学の必要条件はアメリカのどこの大学よりも高いものであった。(註5:医学校の入学資格にカレッジの卒業資格を求めたのはアメリカではジョンス・ホプキンスが初めてである。さらに特定の科学課程の習得とフランス語およびドイツ語の読解力を求めた)。そしてユニークなレジデンス・システムは学生がチーフ・レジデントになるまで働くことができて希望すればその仕事にとどまることを許した。ビリングスが望んだとおりになったのである。それは多数者を短期間で訓練するのではなくて、少数者を十分に訓練することを意味し、この制度は、その恩恵に浴するべく選ばれなかった者からの批判はあったが、非凡な能力と精神を持つ野心的な学生をひきつけた。そして卓越した技量の者が輩出した。
学内の空気は予感と機会に満ち−−−ルイ・ハッセルマンのバーまでも広がり、そこでは医学生、インターン、レジデント、時にはチーフまでも集まり彼らの病院世界という宇宙の諸問題についてサンドウイッチとビールを前にして討論しあうのであった。チーフたちがこの熱情と善意の雰囲気をお互い特殊な才能を褒めあい尊敬しあうことによって、また、さらに研究し、医学教育と医療に新しい基準を作ろうという共通の熱望によって、大きく盛り立てた。ハーヴェー・クッシングはホプキンスを訪ねたときにこの精神に気づいており−−−彼がアシスタント・レジデントとして「落ち着く」と間もなく、それを掌握し、多方面への野心を駆り立てるのだった。(つづく)
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