随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
 外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
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                エリザベス・H・トンプソン 著

         西区・武岡支部
        (パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳
 第4章 上 級 生
 1888年(明治21年)9月にニュー・ヘヴンに帰って、もはやフレッシュマンではない自信に満ちた態度で書いている:「この期に望んで熱心に勉強をしています。新しく5人の先生がいます。プリニウスのトレシー・ペック先生は好きですが残りはあまり好きではありません。僕の苦手の修辞学と英文学のマックロウリン先生、タキツスのムーア先生、イソクラテスのキッチェル先生、それに新しいドイツ語の教師ストロング先生です。忌憚なく話せばストロング先生はなかなかの人物のようです。」
 この秋に「柵」が取り壊されて大いに悲しまれた。「昨夜われわれ4人は出かけて新しい建築(チャペル・コーナーとカレッジ・ストリートに今でも建っているビンガム校舎)の階段に座ってみました。それは建物の角をぐるっと回っていてとても高いのです。ものの数分もしないうちに古い柵の時代のように10−15人が集まってきて、静かに歌い始めました。半時間の間に階段に座っているのは200人に達しました。古い手すりとは比べ物にならない汚い石のそれでも冷たく快い座席でした。新しい建物は堂々たるものですが、あの美しい古い樹木や芝生、何物にもましてあの柵がないのが寂しいことです。」
 この年には部屋のことや食事のことについての記述が少ないが、それらに興味が薄らいだわけではない。母親に書いている。:「僕が家に帰ったときにはうんとご馳走するとジョハンナにご伝声ください。他日、カレッジ新聞のひとつにニュー・ヘヴンの下宿屋のおばさんたちに牛耳られている食通クラブの食前のお祈りが出ていました。僕はぴったりだと思いました:
    おお、慈悲深き神よ
    われらを救いたまえ
    われら十人食事をするのに
    食物がわずか五人前とは」
 この年、社交活動が彼の生活の大半を占めた。彼のよく書き込まれた舞踏会のカードに広い関心が示されている。「人生の今までにこんなにたくさんの美女を見たことも会ったこともない」。このような舞踏会では、クリーヴランド出身の少女たちに会うことが多かった。幾たりかは子供のときから一緒に成長したキャサリン・クロウエル、レイとリーバ・ウイリアムス、メラニー・ハーヴェー、メアリー・グッドウイリーと彼女の妹「ハリー」それにボードマン家の少女たちジョセフインとニーナなど−−−ファーミントン学院に通っている者もあれば兄弟がエール大学にいて、パーティーやフット・ボールに出かけて来る者もいた。ハーヴェーはダンスが好きで上手であった。しかし、エールでも夏のクリーヴランドのカントリー・クラブのダンスでもどちらかと言えば、グループか男の子の仲間たちと出かけることが多かった。
 3月には学内を騒がせる事件が起きた。土地の居酒屋で飲みすぎた学生が家に帰る途中でベンジャミン・シリマンの銅像を引きずりおろしたのである。彼のスクラップ・ブックには夜警のカーペンター氏が職務怠慢のために解雇されたとの記事の切抜きが貼り付けてある。
 前年の6月のエール対ハーヴァードの試合の後は二度と野球をしないとの父親との約束であった。それでもハーヴェーを止められなかった。今度は大学の正規のチームとなっていたのでやや強硬だった。彼は熱心に手紙を書いて頼んだ。カーク博士は暗黙のうちに了承した。そしてハーヴェーは在学中プレーを続けたのである。彼についての「新聞記事」はおおむね満足できた−−−フィラデルフィア戦の後などエールは敗退したのだが、試合でただ一つ得るところが有ったのはクッシングとグレーヴス選手のプレー振りだけであったと報じた。翌年のブラウン戦ではブラウン大学の選手に対して日ごろの短気を見事に抑えて見せた。球を受け損じまいとして3塁に勢いよく突き進んできた彼をブラウン大学の選手が3塁で攻撃して胸を殴った。新聞は「クッシングは両手を体につけて自制し、応援団のいらだたせるような野次にも黙って耐えた」。そして、試合のあとブラウンの全チームが彼に謝ったと報じた。彼はまた大見い出しになった。ケンブリッジにおける対ハーヴァード戦で、スコアは3対2でエールがリードし、ハーヴァードが攻撃のときに満塁であった。バッターがロング・フライを放った。見出しは言う「昨日の対ケンブリッジの野球はまさに興奮する試合であった−−−一万人の観衆がクッシングのロング・フライ・キャッチの妙技に酔った。」
 この種の情報は彼の家への手紙には見出されない。父親との間では人生のもっと深刻な問題−−−永遠に絶えぬ金銭の問題、時には国が直面する政治的な問題について討論した。忠実なオハイオ州共和党員である彼は共和党大統領候補ベンジャミン・ハリソンが1888年の選挙でグロヴァー・クリーブランドに勝ったことに喜びを表明している。
 衣服の必要性についても父親と話し合っている。「僕は昨日ズボン [trouserをtrowserと綴っている] を見付けに行きました。グレーの上着に穿くズボンがだいぶいかれたというか穿けそうにもなくなったからです。」しかし、下着が必要なときには母親に話している。非常にデリケートな言葉遣いで短く、パンツの場合には「p. of d.」とか下着のシャツの場合には「ズボン」とか呼んでいる。
 これらの家への手紙の中で沢山の学生が部屋(彼とペリー・ハーヴェーはともにルーム・メートを続けた)に入ってきて手紙が書けないとこぼしてきたことがある。彼とペリーの人気は休暇が来るたびに級友から招待されたのでもわかる。「石鹸王の息子サム・コルゲートがトットと僕をニュー・ジャーシーのオレンジにある家に、トム・ヤングが招待したあとに感謝祭に招待しました。彼はなかなかいい男でして、弟が三人います。」彼はロング・アイランド、シンネコック・ヒルズ訪問を手紙に書いている。そこではもう一人の91年組のメンバー、グルヴナー・アタバリーの客であった。生涯の友の一人となった人であった。
 アタバリー家から、もう一人の級友スターリング・チャイルドとマサチューセッツ、レノックスにあるロバート・チャピンズの家を訪問した。「チャピンス家はおじさんがなくなって、喪中だったので歓待のパーテイーはありませんでした。僕は人が寝静まるころから始まって、起床すべきころに終わる宴会よりもドライブをしたり、テニス・トーナメントを観たりするほうが好きなのでこの方がよかったと思っています。」
 2年生の終わりにハーヴェーはデルタ・カッパ・イプシロン・クラブ員に選ばれた。そして1889年(明治22年)11月のクラブの感謝祭祝賀会パーティーの席で彼の俳優としての能力を披露する機会を得た。プログラムは報じた。「うるわしきメロドラマ、ポコフオンタス ポウハタン」その中でハーヴェーはポコフオンタス−−−「可愛らしく、はにかみやで、なまめかしくメイン州バー・ハーバーのリゾート地社交界に初めて登場し、女子大卒の恐るべき成果を示す標本ポコフアンタス」の役を演じた。
 ハーヴェーはトランペットの伴奏で華々しく入場し舞台の中央に逆さトンボ返りを2回もやって現れた。体育館でやっていたように、いつもの火をつけたタバコを口に咥えてのトンボ返りである。
 やがて、彼のカレッジ経歴の中で最高の瞬間−−−タップ・デーがやって来た。「木曜日は上級生クラブの選挙の日でしたが、見るのに非常に興奮することでした。まず一人の「骨」クラブの会員がホールからキャンパスにやってきて一言もものを言わずに人目もくれずに大勢集まっている中に自分の探していた下級生を見つけるまでぐるぐる歩き回るのです。見付けると背中をピシャリとたたいて、自分の部屋に来るように伝えます。そこで選抜を受けます。それから「巻物と鍵」クラブの会員がやってきて切望して集まっている下級生の中から一人を選びます。そして、15人ずつ選ぶまで続けます。」ハーヴェーは巻物と鍵クラブ会員にピシャリと肩を叩かれ大喜びであった。トットもグルーヴ・アタバリーもともに選ばれた。彼は父親に書いた、「上級生クラブがどんなにすばらしいものであるか、それが学内でいかに重要な位置を占めるか、クラブ員であることがいかに有益であるかについて、クラブについて余り知らない人へ説明すると長い話になるので述べようとは思いません。」ハーヴェーの友人であり共同研究者であったウイリアム・ウェルチ博士が、20数年前、「骨」クラブに選ばれたとき、自分の父親に書いている「この名誉は学内のいかなる名誉にも優るものです」と。
 1890年(明治23年)の秋にハーヴェーは未来への期待とあっという間に過ぎ去ったカレッジ生活への哀惜とが交錯する最終学年に直面していた。彼の家への最初の手紙で悼んでいる「この大事な年の一週間が過ぎてしまいました。どうして、そして、どこへ消えたのか分かりません。僕の時間は朝から夜まで非常に取られて、一日がまるで時計の振り子のちくたくのように過ぎてしまいます。時とともにもったいぶった上級生としてアット・ホームに感ずるようになりました。しかしながら、もったいぶったと言うのは適当な言葉ではないと思います。というのはそうでない連中ばかりです。」母親の問い合わせに部屋の様子の説明をしている彼自身ももったいぶってはいないようである。図面を付して、
    Bマークのあるところ、
       われら二人の机あり
    かたやSマークのあるところ
       われら二人の洗面所
    Dはわれらの寝るところ
       遠い国の夢見るところ
    かたやIには僕の机
       母親様の命に従うところ
    Tマークはソファで
       いつもトットがいびきかく
    Rの印は床に敷いたるラグありて
    Cの印は風うなる煙突で……
    こんなことはもう書きません」
 学科については幸福であった。歴史での英国におけるマーロウ(劇作家・詩人)とフランス革命の勉強を楽しんだ。特にフランス革命については非常に興味深く「特にウィラー教授の人となり」にも関心があったことを報告している。「僕はジョージ・ラッド先生についても同じことを言いたかったのですが……」。続けて「自分が出来たのは彼の教科書の最初の25ページを翻訳するのがやっとでした。その上、クラスに説明するために屠殺場に行って子牛の脳をもらってこなくてはならないのです。クラスの中で僕の名前しか知らなかったので僕を当てたのだと思います。」
 ハーヴェーは化学、物理学、それに哲学のコースを取り、この貴重な学年には動物学と生化学の勉強もした。これらの科学の単位科目はいままでギリシャ語やラテン語では覚えたことのなかったほどに彼のイマジネーシヨンを発火させた。研究室にいなければならない時間をとられるので不平を言いながら、彼はついに自ら進んで何時間もかけて研究すべき何物かにぶっつかった。彼は特にカレッジ内でもっとも難しいと評判の単位科目に親しんだ。
 彼は自分が将来進むべき道について考え始めた。2年生のときに父親に書いている。「出来るだけ早くラッド教授と話し合うつもりです。彼が化学の単位科目を取ることになんと言うか聞いてみます。僕が医学を学ぼうとすると来年はとることの出来ない化学を逸してはならないことは疑いもないからです。」しかしながら、後にはこう書いている。「僕がカレッジを卒業してからどんな道を歩むことを望んでおられるかわかりません。僕もいろいろ考えてはいるのですが、まったく決心がつきません。」いまや、最上級生となったハーヴェーには漠然と二つの考えが心にあった。彼の芸術家的天分は彼をグルヴナー・アタベリーに近づけた。建築学を専攻しようとして、将来共同の事務所を開設しようとするものである。また卒業後チッテンデン教授の研究室に入る可能性も強かった。ニューヨークのアタバリー家の訪問で家庭医ヘンリー・ステイムソン博士に会い、翌朝ニューヨーク病院の病棟を案内してもらったところ、ひどい骨折の検査をしているところで、グルヴナーは真っ青になり、ハーヴェーはすべてに興味を持った。
 春になると、上級生クラブが、各種の職業の錚々たるメンバーを招いて講演会を開いた。中でもニューヨークのブライソン・デラワン博士が内科と外科の歴史について講演したのを聴講してその1時間半に「強烈な印象」を受けた。彼はしばしば、「学長」、ジョージ・ラッド教授や他の客員講師のチャペルで行われる「45分の風」をこぼしていたところであったので、これらの課外教科が彼の過程学習に興味を加えた。クラスでの子牛の脳についての説明に加えて蛙の脊髄と脳神経の解剖、さらにイヌの解剖についても話した。こうして、最終学年が終わるころには医学志望が目立ってきて、ほかの計画は実体を失ってきたように見える。
 明らかにそのときが始めてであったようで、図書館を訪ねて、新しい興味を見つけた。「僕は作文に役立つ何かを探しに図書館に行きました。しかし、非常に興味深く次々と本を調べているうちに作文のことはすっかり忘れてしまい、図書館員が閉館のベルを鳴らすまで夢中でした」。キャサリン・クロウエルが母親と一緒に訪ねてきた事を知らせる手紙にも二度目の図書館のことに触れている。「ちょうど僕は30分ほど空いていましたので、3人で図書館に行ってみました……クロウエル夫人は楽しまれた様子でした。僕はそうあってほしいと思います。と言うのは図書館は訪問者があまり行かない大学のキャンパスの部分だからです。でも大学は遊ぶばかりではないことを示すのに図書館がもっともいい場所であると思います。その上、新図書館の閲覧室はティファニー窓があって、実に美しいです。
 (註1:彼は1,891年(明治24年)のエール大学年鑑ポット・プーリの口絵にこの窓のカットを使った。「巻物と鍵」クラブの編集によるもので、その年は彼とその友人G.ビークマン{デイーコン}が担当した)
 とうとう「砂時計と大鎌を持ち、未曾有のスピードにハッスルした老人・時の神」が彼を捉え始めた。4月26日に母親に書いている。「学年の時間がやってきました。将来の上級生も下級生も彼らの単位科目を選ぶときです、そして、何も起こらずに冷たくわれわれをシャット・アウトし、次年度まで選ばせないように見えます。私たちに出来ることのすべては呼び出しを受け、そしてこれらの卓抜な下級生にいかなる路を踏むべきかをアドバイスすることだけです。僕はある将来性のある医師に同じ研究に従うように説きつけられました−−−僕はいま−−どのコースに行くか棚ざらし中です。僕が誓いを立てる準備をしているのはチッテンデン教授の単位科目です」。
 父親が望んだようなファイ・ベッタ・カッパ・クラブ(最優秀クラス)には入れなかったがハーヴェーは第一組(クラスの上位三分の一)の成績で卒業した。カレッジ生活の中でもエール大学が結びつけた友人との付き合いを何よりも大事に思い、卒業後も級友の多くと親しい交わりを生涯にわたって結んだ。忙しい大学院時代でも「鍵」のメンバーには1週間おきにかわるがわる手紙を書いている。
 彼は上級生舞踏会の委員になったが、何せプログラムを紛失したらしく、カードボードの切れ端に彼のダンス相手が保存してある。エリザベス・ル・ブールジョアとキャサリン・クロウエルの名がいずれも2回も出てくる。休憩時間のひとつにはクロウエル夫人の名前が入っている。しかし、従兄弟のエド・ウイリアムスがキャサリンを自分のクラスの会に誘った。ハーヴェーは依然として一人の少女に心を奪われることなく、卒業式の月光の下ですら全然心を奪われていなかった。
 父親は卒業式に出てきたが、ほんの短時間しか滞在できなかった。家に残った母親へハーヴェーは報告している。「今朝私たちは総長の卒業式告辞を聞きに行きました。60分もかかって過去は過ぎ去り、行く手には未来があるというまでの話をしてもらいました。」
 1891年(明治24年)6月24日、ハーヴェー・クッシングはエール大学から学位を受けた。キャンパスを横切りながら合唱するクラスメートの歌声を聴きながら最後の夜に去りゆくための荷造りをするハーヴェーの心は悲しみでいっぱいであった。
    昇り行く満月を見よ
       塔屋も講堂も照らして
    風にゆるくそよぐ木の葉よ
     しろがねの矢となりて
     静かに落ちてゆく
    歌声もたからかに合唱せん
     若き日は過ぎ行けど友情は
      永遠に続かん
    日々は楽しく
     懐かしきエールの楡の木のもと
(つづく)

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