随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
 外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
                   [1]


                エリザベス・H・トンプソン 著

         西区・武岡支部
        (パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳

 第1章 ウエスタン・リザーブ
     −−−コネティカット州の−−−
 ボストン市マサチューセッツ総合病院南病棟のインターン生ハーヴェー・クッシングがいつものように包帯交換のために、1893年(明治26年)秋のある朝、病棟に入ってきた。
 彼のベッドからベッドへと進む処置を眺めている患者の中に、ルーシー・ホーガンがいた。
 彼女はカナダのニュー・ブランズウイックからはるばると治療を受けるためにやって来たのだった。
 ルーシーは、しばらく前に足になかなか治らない「痛いところ」が出来て、困っていたが、彼女の町から30マイルほど離れたところに奇跡を執り行う祭司がいると聞いて、費用を蓄えて、その町に旅した。あいにく、その祭司は巡回説教に出かけていることがわかった。しかし、親切にも駅長の細君が、祭司が町に戻るまで彼女を泊めてくれた。
 祭司は賢い人であったに違いない。彼女に軟膏を与えてから言った。「どうしても痛みが治らないなら、ボストン市にあるマサチューセッツ総合病院に行くように。そして、そこで足を切断するのが最もいい方法である」と言われたら、そのようにすることを奨めた。
 「痛み」はなかなか治らなかった。それから2年後の現在、ルーシー・ホーガンはボストンに居たわけである。大都会を見たのも、また大病院を見たのも初めてであった。彼女は怖がっていた。そしてドクターと彼を介助するナースが、彼女のベッドサイドにやって来て、ドクターの手が鋏に伸びたのを見て、その場で足を切断されるのではないかと恐れおののいた。
 しかし、彼が包帯を取り除いたときの優しさ、暖かい声と笑顔、誠実なまた熱心な態度での診察で彼女をすっかり安心させたので、彼女は同情的な手の中にあることを知り、もはや恐ろしがらなくなった。
 この出会いこそ、ルーシー・ホーガンの生涯変わらぬ若きインターンへの信頼の始まりであった。そしてクッシングが外科医として有名になったときには自分のことのように誇らしく思った。
 クッシングの死後、数年経って、ルーシーは友人のマサチューセッツ総合病院社会奉仕部主任アイダ・M・キャノン嬢に手紙を書いた。そのとき彼女は不治の眼病のためにほとんど盲に近く、また彼女の足の痛みを起こすレイノー氏病が次第に悪化して、年々8回にもわたって局部的に切断を要していた。
 手紙に言う。
『もっとも親愛なるキャノン嬢、私はここに、貴女のお求めの親愛なるドクター・ハーヴェー・クッシングの手紙を同封します。ドクター・クッシングは死んだのではありません。彼は患者と友人の心の中に生きています。もし医師たちが、自分たちが患者に与えたものが、水薬や錠剤以上のものであることを知ったとしたら、心強さを見出し、どんな困難な場所にでも喜んで臨むことでしょう。      ルーシー・H・ホーガン』

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 ハーヴェー・クッシングの物語は1869年(明治2年)4月8日の彼の誕生日では、始まらない。彼の宿命を形作る力は、その日付よりもずっと前に  おそらくは1835年(天保6年)の9月の日まで遡って作用していた。
 そのときとはマサチューセッツのバークシャイア・ヒルズに囲まれたレーズボロの町の若き医師イラスタス・クッシングが馬車に乗り込んで馬首を西へ向けたときである。
 イラスタスの門出を見送る人々の中に母親のフリーラブ・クッシングがいた。彼女はどんなに説きつけても、ニュー・イングランドの地を離れさすことは出来なかった。ここには彼女の夫、クッシング家の最初の医師デーヴィド2世が埋葬されていたからである。しかし、デヴィッドの過労とニュー・イングランドの冷たい星の下に長時間さらされての早死にが、イラスタスに住み慣れた故郷に別れを告げて温和な気候と新しい機会が招く遥かな西部への道をとらせるに至ったことはよくわかっていた。
 1662年(寛永2年)にチャールス2世によって、コネティカット州に譲渡されたウエスタン・リザーブにはコネティカット州とマサチューセッツ州からの集団移住者が多かった。この「西部での、最も大きくて、強力で、最も特徴的に単純で、簡潔な植民地で、最後の清教徒の足跡」は1802年(享和2年)にオハイオ州が独立したときに、その一部となった。
 イラスタスがかつて、視察旅行でクリーブランドを訪れたときに、この町が強く気に入っていた。それで新しいスタートをするのに、この場所を選んでいた。
 彼は、いま家族を連れて前進するにあたり、「ふるさとの丘の力強さ」、父の変わらぬ思い出、父の蔵書などを伴っていた。
 よく読まれた馴染み深い数々、それだけに父デーヴィドに楽しみを与えていた蔵書が、故郷の緑の丘や見慣れた渓谷を離れ、山越えをしてニューヨーク州に入るイラスタスに安全感を与えるのだった。この間道は今でも山と迸る小川の間をくねくねとくねっているのだ。
 若い妻メアリー・プラット・クッシングと彼らの三人の子供(長子が8歳で、下の子が4ヵ月)を連れたイラスタスはやがて困難な旅の第一歩トロイに着いた。トロイからバッファローまで、運河伝いのボートで約1週間の旅をして、さらに帆船でクリーブランドに向かった。もともとは大した距離ではないのだが、嵐もようの悪天候のため、カナダ領の湖岸に2日間も避難せざるを得なかったので、エリー湖の湖岸から崖をよじ登り、眼前に広がったクリーブランドの町を展望したのは10月15日のことであった。それは美しく晴れ上がった秋の日であった。ニューイングランドの長い厳しい冬を逃れてきた一家にとって、この翌年1月までも続いた好天気は、彼らの新しい生活の幸先のよい門出になると喜ぶことであった。
 心優しく人懐こいイラスタスは間もなく認められ、その医業も繁盛するに至るまで、それほど時間がかからなかった。町の中心部にある公共グリーン地帯の向かい側に買った土地に家と診療所を建てた。町の人々からその教養と誠実さに尊敬を受けるようになった。
 そうこうするうちに、彼の長男ヘンリー・カークは痩せて背が高く、どちらかと言えば内気で神経質な青年に成長した。1845年(弘化2年)の秋にヘンリー・カークはニューヨーク州スケネクタデイにあるユニオン・カレッジのジュニア・クラスに入学した。1848年(嘉永1年)に卒業したが、「好成績は2〜3課目だけ」だった。クリーブランドに帰って、父親の見習いをしながら、クリーヴランド医学校の聴講を続けた。
 この期間、ヘンリー・カークはしばしばウイリアム・ウイリアムス家の家庭を訪れた。父親も家庭医として親しかった。彼はウイリアムス家の一人の男の子と「その正常な心臓を診察させる代わりにいくらかの契約金を払うことに決めた(そこで、この少年はほかの兄弟の羨みの的になった)。しかし、本当は、ここの長女ベッチィ・マリア−−−快活な美しい娘で、大きな黒い瞳を持ち、つややかな黒い髪を編んで頭に巻いていた−−−の心臓の方に関心があったのだ。時が経つにつれ、カークのもくろみは、ますます明らかになってきた。
 このような状況にもかかわらず、カークは1850年(嘉永3年)ペンシルベニア大学医学部での医学教育を終えるためにフィラデルフィアに行ってしまった。イラスタスはたびたび手紙を書いて何でも自分で決定するよう励まし、またカークが自分でやるのがよいと考えたことにはいかなることでもサポートすることを請合った。
(註1:イラスタスは当時としては最高の医学教育を受けていた。地方の開業医に2年間弟子入りし、ニューヨーク病院で1年間、ピッツフィールヅのバークシャイア医学校ならびにウイリアムズ・カレッジ医学部にそれぞれ1年間学んでいる)
 彼は、ヘンリー・カークがその後の進歩した医学教育を身につけることを心から望んでいたのである。
 またルーム・メイトが、医学部生ではなくて神学部生であることに、視野を広くすることだと喜んだ。「もし彼が知性に富み、紳士的で、すべての聖職者が備えているように深く人間性を理解しているのであれば、楽しくてかつ有益な仲間になるだろう」と書き送った。たった一つの忠告は、ありふれたことであるが「たった一つ言い忘れた大事なことがあり、それは今よりも、もっと十分に睡眠をとるべきだということだ」と。
 1850年(嘉永3年)12月、やがて課程が終わろうとするころ、あるプライベートの精神科患者の収容施設の副院長に推薦された。父親はこのような病院のいい点、悪い点を指摘した。「そのような病院を辞めたときに、世間も患者も拘束衣を着せられているわけではないから、病院にいたときのように自分の思い通りには行かないことがわかるだろう。しかし、一方、人をマネージする術を学んで、やがてそれを世間一般でマネージできるようになるだろう。
 そして、カークが実はそのポジションを得られなかったときにも、心から慰めた。「期待していたアポイントメントが変わってしまったことで、あまり気にしないほうがいい。疑いもなく失望したとは思うが、もともと当てにしていなければ、失うものもないわけだ。こういうことは人生を通じていつも出会う小さな不幸のひとつに過ぎない。君が帰る場所もなく、まったくこの世で孤独な境遇であるなら話は別だ」。
 自分の将来を自分で決定することは出来なくなった。ヘンリー・カークは希望していたインターン生活もあきらめてイラスタスが重病で倒れたあとの代わりをするために帰郷した。そしてイラスタス独りでは手が回りかねている診療に父親の片腕となって働いた。1852年(嘉永5年)6月にベッチィ・マリア・ウイリアムスと結婚し、まもなく子供が次々に生まれて自分のことなど構っている暇はなくなった。
 クッシング家に生まれた10人の子供のうち成人したのは7人だけであった。
(註2:ウイリアム・イラスタス(1853−1917)、アリス・カーク(1859−1918)。ヘンリー・プラット(1860−1920)、エドワード・フイッチ(1862−1911)、ジョージ・ブリッグス(1864−1939)、アレイン・メイナード(1867−1903)、ハーヴェー・ウイリアムズ(1869−1939))
 クリーブランド市は急速に発展し、ビジネス街もそれにつれて広がったので、結婚当初は数回も引越しをさせられ、ようやくプロスペクト街786番地(1950年(昭和25年)現在では3112番地)で、ユークリッド通りのイラスタス・クッシングの家に近いところに落ち着いた。
 それからの40年というもの、ドクター・カークと呼ばれながら、南北戦争で召集されたときと氷の上で滑って膝を怪我して1年間臥床したとき以外は一日たりと欠かさず、大勢の患者の診療をした。彼はクリーブランド医科大学の産科、婦人科、法医学の教授となり、後にはウエスタン・リザーブ大学の理事を10年ほど務めた。彼は目立った存在ではなかったが、クリーブランド医学界で活躍した。大いに尊敬はされたが、親しい友人は少なく、生来のはにかみ屋で学生時代も友達を作るのに遠慮勝ちであったので、長ずるにつれて忙しく、近づきがたい難しさと厳格さを形作った。
 多くの人は、また彼の子供たちでさえ、彼が、たまに在宅し、書斎のドアを閉めて読みふけっている本の名−−−未知の国での冒険談、オレゴン州でのルイスとクラークの冒険、アフリカでのリヴィングストン、中国でのゴードンなどを知ったら驚いたに違いない。彼はアフリカの部族、アメリカのインディアン、彼らの風俗習慣、彼らの戦闘様式などを沢山読み、英国のいくつかの連隊の歴史、その軍服、その伝統、戦闘、遠征のことまで知っていた。
 これらの興味を持ったことを子供たちに話して聞かせたりすることができれば、親子の間にわだかまっていたよそよそしさも打ち解けたはずなのに、子供たちが真にヘンリー・カークを知り、理解するにはもっと成長するまでの時間を要した。しかし、自分が長時間にわたる馬車の乗り合せのつれづれに研究した星の話は教えたし、また博物学、それも膨大な知識を持つ樹木のことなど興味を持つように励ましたのである。
 やがて、穏やかで、かつ、厳しい表面の下に子供たちと同じような旺盛な知識欲があることを知るに至った。長男のウイリアムは後年、父親の初めての自動車旅行のことを思い出している。ドクター・カークは運転手に万一何か起こったときには自分で家まで機械を運転して帰る自信が出来るまで、何一つ「やり方」についてたずねることなく、運転手のすることを見つめていた。
 また、ある別な機会に、象が「ペーサー」であるかどうかが彼の関心の的となった。すなわち、馬のように側対歩をするかどうかである。いろんな本を調べても書いてないので、次に街にサーカスが来たときにウイリアムを連れてゆくことにした。象がすっかりペーシングすなわち側対歩(片側の肢を同時に挙げる)をしたのを見たときに、彼は満足げに頷いて、さっさと家に帰ってしまった。
 しかし、このように子供たちが父親を理解するようになったのは、うんと後のことであった。子供たちの育ち盛りの時には、子供たちの要求のほとんどを満たしていたのはベッチィ・マリアだった。子供たちが病気の時には自分の薬箱から薬を飲ませ、すりむいたひざ小僧を手当てし、傷ついた感情を慰めるのも彼女であった。子供たちに教義問答を教えたのも、フランス語、ラテン語、ギリシャ語などの勉強の面倒をみたのもすべてベッチィ・マリアであった。彼女はクリーブランドで最良の古典学校で学び、フランス語、ラテン語、ギリシャ語に秀でていた。
 ベッチィ・マリア自身10人兄弟姉妹の一人として育ち、彼女の家庭はいつも大きな家族の賑やかな中心があったので、自分の子供たちにも幾分そのような雰囲気を味あわせたいと思っていた。彼女のエネルギー、ユーモア、暖かい友情ぶりなど性質の幾分かは、心底熱心で、どこまでも人がよくて親切な彼女の父親ウイリアム・ウイリアムス氏からうけ継いでいた。ルシアン・プライスはウエスタン・リザーブの初期の移住者を「ホームスパンのオリンピア人」と呼んだ。
(註3:1946年(昭和21年)ボスト・グローブ紙の記者「ダッドリー伯父さん」ルシアン・プライスは、故郷のウエスタン・リザーブについて心暖まるエッセイ「ホームスパンのオリンピア人」をアトランチック・マンスリー月刊誌に書いている)
 クッシング家と同じくウイリアムス家もニューイングランドから移住してきたが、倹約家でやり手であったので、事業は繁盛した。
 ユークリッド通りにあるウイリアム・ウイリアムス家にはあらゆる年齢層の40から50人近い一族の人々が足繁く集まっていた。そして思い思いの方法で楽しんでいた。創作した詩を朗読したり、歌ったり(ウイリアムス家の人はみんな音楽家だった)、劇を演じたりした。あるときにはドクター・カークを説き伏せて「炉辺の蟋蟀」のグラフ・タックルトンの役を引き受けさせることに成功したことすらあった。
 母親に早く死に別れ、継母が長い間病気で寝たきりであったので、ベッチィ・マリアはまだうんと若いときから弟妹の面倒を見なければならなかった。だから、自分の子供たちが生まれたときには、すっかり母親役をこなすことが出来た。ドクター・カークが往診に出て留守の冬の宵など、暖炉の前の椅子に腰掛けて赤ん坊を腕に抱いてあやしながら、自分の弟たちの勉強を一人、次々と見てやった。 あるいは台の上に本を載せて読んでやりながら、ソックスや手袋を編んでいた。子供たちが年頃になると、一緒に講演会や音楽会に連れて行ったりした。
 こうして年中を通じて、ベッチィ・マリアは子供たちの相棒を務めて、子供たちに父親が自分の職業に没頭していることからくる寂しさをあまり思わせなかった。ヘンリー・カークが疲労と心痛のあまり、数日、時には数週にわたって沈黙の中に引きこもるときでさえ、彼女は朗らかさと心の落ち着きとを失うことはなかった。彼女は彼の深く秘められたユーモアと思いやりとが彼女の日ごろの朗らかさを支えていることを誰よりも気づいていたからである。深く理解しあった二人の間柄を示すもっとも身近な例として末の息子ハーヴェーがたまたま語った話がある。ヘンリー・カークがある日家に帰ってきて沈痛な表情で語った。自分は両腕をなくした婦人に持ち金を全部やってしまった。しかもその婦人を馬車に乗せて連れてきたと言うのだ。ベッチィ・マリアは案の定すっかり同情してしまい外に走り出た−−−そして馬車の前部座席で見た両腕のない婦人とは−−−ミロのビーナスの銅像であった。(つづく)

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