新春随筆
三  社  参  り

西区・武岡支部
(西橋内科) 西橋 弘成


 子供にとっては、お正月は楽しいものである。お雑煮・おせち料理・お屠蘇などの御馳走、そして、カルタ取り・まりつき・双六・羽根突き・竹馬乗り・凧上げ等の遊び、みな嬉しいものである。
 私の子供の頃は、テレビは無かったので、近くの神社に一年間無事だったお礼を伝えに行き、帰って来ると家族で円卓を囲み、年越しそばを戴くのだった。
 明けて元日を迎えると、東の空に上った太陽を拝み家に入って先ずお屠蘇を戴く。お屠蘇は年の若い順に戴く。
 一年の主な行事のやり方は、大体母が実家で育っている間に覚えたやり方に従っている。
 父は一人っ子で、15歳で母を亡くし、14歳で大牟田の工業学校へ進学したので、いろんな行事のやり方を覚える暇が無かった。それに、男なので余りそれらに関心が無かったらしい。唯、すき焼きだけは、父が上手だった。
 お屠蘇を飲みおわるとお雑煮を食べる。この雑煮の作り方が母の実家独特のものだ。やや小さめの餅を焼かずに一個、そして里芋、これも切らないで入れるので小さめの物、人参・牛蒡など4cm位の長さに輪切りにする。椎茸・海老などは小さめのものをそのまま一個入れる。どれも横割りはしない。数は全部で奇数個にする。5ケとか7ケとか9ケなど。大体9ケが多かった。
 お雑煮を戴くと次はおせち料理を戴く。これは最近の物と余り変わっていなかったようだ。雑煮で腹一杯になっている場合は、田作(ごまめ)・黒豆・数の子だけを食べる。田作は元気で過せるように、黒豆はまめまめしく働けるように、そして数の子は子孫が繁栄するように、という願いを込めて戴くものらしい。
 最後は干し柿を一個食べる。そして、中に入っていた種子の数で、その人の一年間の人生を占うのだ。これも母が教えてくれたもので、0から10位までの占い言葉が有る。何かにメモっておけば良かったがそうしてないので殆ど忘れてしまった。例えば5ケ入っていたら「五(いつつ)いつものように」となり、7ケ入っていたら「七(ななつ)何事もないように」となる。一ケ入っていた場合、言葉は忘れたが、その種子を植えると芽が出て来て木になり、桃栗3年柿8年で、8年すると甘い実が生(な)るという。15年位前だったか私のが種子1ケだったので試しに植えてみたら、本当に芽が出て8年目に甘柿が3ケ程なった。他の数のも植えてみたら面白かったのにと思った。
 元旦は、午前中は戸を開けないでおく。勿論外出もしない。理由(わけ)は聞きそこなったが、元旦の幸福が逃げて行かないようにという意味が有ったのではなかろうか。
 午後になると、雨戸を開け、子供達は外へ遊びに出る。男の子は凧あげ、竹馬のりなど、女の子は羽根突き、まりつき等をする。羽根突きには男の子も加わることがある。負けたら顔に墨を塗られる。
 初詣ではいつしたのだろうか。元日の午後か、二日の午前か。近くて格式のある神社にお参りに行く。おみくじを引いて、大吉が出たと言っては喜び、小吉が出たと言っては滅入る。
 三社参りを知ったのは、福岡県の荒木村に住んでいる時だった。私が小学校に上がる前だった。元日だったか二日だったかは覚えてないが、前日、父が明日は三社参りに行くから、いつものように起きて外出着を着なさいと言った。
 いつもより早く目覚めた。お雑煮やおせち料理の残り物を食べて、9時には家を出た。荒木駅には10分もあれば着く。この駅には準急も停まらないので、門司行きの鈍行列車に乗る。
 列車は各駅停車をしながら博多駅の方へ向っている。列車は人で一杯だ。博多駅に着いた。ここで降りるのかと思ったら、父は何にも言わない。汽車は発車した。街の風景が、田圃・畑の風景に変わって来た。田圃の中の駅に停った。「さあ、ここで降りるぞ」と父が言った。私達だけかと思ったら沢山の人々が降りている。プラットホームの立て看板に「みやぢ」と書いてある。何があるのだろうとあたりを見廻すと、海側の田圃の中に、小高い丘が一つぽつんと立っている。中腹を人が連なって蟻の行列のように上がっていく。「あの丘の上に宮路嶽神社がある。そこへお参りするのだ」と父が言った。
 つづら折りの石段を上って行くと、頂上は平らな台地になっていて四方がよく見渡せた。
 ここは商売の神様らしい。サラリーマンである父が、ここをお参りしたのは、会社が栄えるようにと祈ったのだろうか。
 丘を下りて宮路駅へ戻った。間もなく汽車がやって来た。今度は博多方面行きだ。田圃のそばや畑のそばを汽車は走る。少し人家が増えて来た。汽車が停まった。「ここで降りるぞ」と父が言った。屋根付きのホームだ。屋根から下った白い板に黒字で「はこざき」と書いてある。
 私の足で15分位歩いただろうか。海岸へ出た。砂浜を少し歩くと大きな赤い鳥居が見えて来た。鳥居をくぐると大勢の人溜りである。その先から何やら喚き声が聞こえて来る。父は私の手を引いて人込みの間を縫って前へ進んだ。私の目の高さでは、白いふんどしを締めたお尻と脚が見えるだけだった。ワッショイ・ワッショイという声が頭の上から響いて来た。ややあって父が私を抱くと肩車をしてくれた。それで全体が良く見えるようになった。男が二人肩を組んでその上に一人のっている。そうした騎馬が幾組かあって一つの木の毬を奪い合っているのだった。時々囲りからバケツで水をかける。その水は裸の男たちの身体にかかると湯気となって上っていく。毬を本殿に納めた組が勝ちだそうだ。ここは武道の神様ではないかと思った。帰りに鳥居を見たら「はこざきぐう」と書いてあった。
 それから、電車に乗って、今はつぶれてなくなった老舗のデパート「玉屋」に行って、昼食を取った。福岡市へ出て来る楽しみのひとつは、玉屋でお子様ランチを食べる事だった。食物のまんなかに日の丸の旗が立ててあり、小さなおもちゃが一個ついている。
 最後は、大宰府天満宮だ。国鉄二日市駅で西鉄に乗り換えて大宰府へ行く。駅を出ると石畳をはさんで門前市が立っている。
 赤い太鼓橋を渡って朱色の門をくぐると本殿だ。右手には彼の有名な「飛梅」が植っている。ここは学問の神様だそうだが、若い人や、その親と思われる人達で賑わっている。ここでもそうだが、他の二社でも私は祈る事を思いつかず唯、手を合わせてお礼をしただけだった。夕方社宅へ帰りついた。少々疲れたが、汽車には乗ったし、デパートではお子様ランチを食べたし、満足していた。姉や妹はどうだっただろうか。
 三社参りはこれ一回きりで、後はなかった。福岡県も広いので、別の場所では別の三社を参っているのだろう。
 小学2年の11月、私たち一家は、父母の故郷である人吉へ転居した。人吉にも、青井神社・若宮神社、城内にある人吉神社(相良神社とも言う)が三社としてあるが、三社参りした事はない。いつも、門が国宝になっている青井神社へお参りしていた。
 鹿児島では、照国神社・霧島神社・鹿児島神社を三社と言っているらしいが、個別にはお参りに行っても、三社参りした事はない。
 川内や指宿の人達は、亦別の神社を三社としてお参りしているのであろう。

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