随筆・その他

リレー随筆


「平成が終わると聞いて考えたこと」


鹿児島大学病院 前田 将久

 平成が終わる。といってもあと1年もあるのだが,年号が変わる時代を経験していない僕からすると大事件である。何百回,何千回と書いてきた文字とさよならである。最近は「H」なんてアルファベット一文字で済ませてしまってごめん,といった思いだ。だんだんと平成の終わりは近づいている。テレビでいうと「みなさんのおかげでした」や「めちゃイケ」の終了に平成の終わりを感じた。音楽界では,SMAP解散,TK引退,安室ちゃん引退と,平成終了感満載の出来事が続いた。引退って悲しいものだ。そう考えると,ローリング・ストーンズは化け物だ。バリバリ現役である。僕はラッキーなことに,2014年の来日公演を見に行けたのだが,米粒大でもミック・ジャガーがクネクネ動いてるのが分かった。
 長生きは良いことだ。日本でいうと,加山雄三も元気である。先日の光進丸炎上はとても残念なニュースだったが,若大将ならきっと大丈夫だ。ライブに一度行ったことがあるが,衝撃的だった。1回のライブの中で 『君といつまでも』 を3回も歌っていた。1回目はライブのオープニングで弾き語り調。2回目はスタンダードに。3回目はアンコールで「それじゃあ最後にみんなで歌おうー!」と,半分以上客席に歌わせていた。さすが若大将である。
 レジェンドといえば,ボブ・ディランの話をしようと思う。ノーベル賞受賞で一躍世間でも名前を聞くようになった。しかし受賞への返事をなかなかしないことが話題となり,女子高生の間ではLINEの返信がないことを「あぁー,まじボブ・ディランなんだけど」なんて言うことがちょっと流行ったらしい。今年のフジロックへの出演が決まったディランだが,SNSでは「ディランはライブちゃんと出るのか?」「どうせドタキャンするでしょ」なんて声が挙がっている。不名誉なことだが,ディランは決してそんな人ではない。僕は何度も来日公演に行っているが,いつもしっかり時間通りに始まる。ライブはいつも新鮮だ。新曲ばかりのセットリストに加え,トラディッショナルな曲をディラン風にアレンジして歌う。もちろん往年の名曲もやってくれるのだが,アレンジがすごすぎて原曲がわからない。やっぱり今まで何百回と歌っていると,飽きてくるのだろう。晩年の尾崎紀世彦もそうだった。『また逢う日まで』 は名曲だが,サビの「2人でー,ドアをしーめーてー」が「ふったっりで~,ドッアッを,しぃめぇてぇ~~~!」とアレンジが強すぎて,伴奏のピアニストが必死になっていたのを覚えている。
 一方で,ずっとスタイルが変わらないレジェンドも居る。例えば,KISSがそうだ。歌舞伎役者のような派手なメイクをしているのに,やってる音楽は正統派ロックンロールのあの人達だ。KISSの来日公演にも行ったのだが,今までDVDでみていたライブと全く同じだった。完成したショーなのだと思う。途中で何回かボーン!と爆発を挟んだりしながらライブが進んでいき,一旦メンバーが捌けると,ジーン・シモンズがソロのベース演奏を始める。だんだんとジーン・シモンズのお立ち台は地上十数メートルまで上がっていき,そこで口に含んだ血糊を吐き出す。それからまたメンバーが出てきて演奏が再開し,クライマックスでヴォーカルのポール・スタンレーが宙吊りになり,ターザンのように客席後方のステージに移動する。こういった感じで,1つのショーが完成しているのだ。まるで吉本新喜劇のようだ。
 新喜劇といえば,昔は毎週かかさず見ていた。土曜日がお昼まであった小学生時代は,急いで帰ってきてブラウン管の前に座ってかじりついて観ていた。学校から支給される牛乳を飲みながら。今はそれがビールに変わった。家に帰ってきて,ビールを飲みながら観るバラエティーは最高である。こんな時間がちょっとはあれば幸せに思う。
 いろいろ言われているが,テレビはまだまだ面白い。いつか休みが取れたら,探偵ナイトスクープの観覧に行ってみたいし,空耳アワーで安齋さんにハガキを読まれたい。タモリさんに「たしかに言ってるねー!これもう1回見てみよう」って言われたい。
 テレビも良いが,ラジオも捨てがたい。高校のときは毎日深夜ラジオを聴いていた。好きすぎて,いつの間にかハガキ職人になっていた。家族が寝静まった頃に布団の中で深夜ラジオを聴くのが常だった。自分の投稿が初めて読まれたときは,飛び上がるほど嬉しく,勢い余ってベッドから落ちたほどだ。
 ラジオからは,たくさんのことを学んだ。音楽とか落語とか。ラジオ英会話は1週間で辞めてしまったけれど。高1のとき深夜ラジオで初めてキヨシローの歌声を聴いたときは世界が変わった。翌日も授業は全く頭に入らず,昨日聴いた曲がリピート再生されていた。たしか 『スローバラード』 だったと思う。授業が終わると急いで中央駅のCDショップに駆け込み,それが入っているアルバムを買った。レコードじゃないから,擦り切れるほど聴いた,と書けないのが平成な感じである。それから1年後,僕はあるフェスに行き,生でキヨシローを見ることができた。ちょっと自慢である。そんな生活をしていたから,もちろん浪人生活に突入した。
 地元の予備校に通うことにしたが,寮に入れさせてもらった。携帯持ち込み禁止,テレビもラジオもなく,世間から遠のいた生活を送ることになった。修行の日々だった。そんな生活にも慣れた頃,同じ教室に居た友人から衝撃のひと言を聞いた。「キヨシロー,死んだよ」と。かなり動揺して,私語禁止の教室でなんとも言えない声を出してしまった。授業が終わると急いでコンビニを駆け回り,新聞をかき集めた。確かにそういう記事が載っていたが,なかなか受け入れられなかった。しかし,寮の仲間の支えもあり,何とか乗り越えることができた。
 寮生活はきついことも多々あったが,今振り返ると良き思い出ばかりで。寮の1階に食堂兼自習室があり,そこで過ごすことが多かったのだが,ほぼ全面ガラス張りだった。マジックミラーでなく,普通のガラス窓であった。丸見えである。寮の近くは飲み屋街で,たまに酔っ払いが窓越しに絡んできたりした。そんなときは我らの寮長(寮の管理人)の出番であった。年齢は60を超えていたのだが,元自衛隊のマッチョであり,髪型は軽いリーゼントをキメていた。そんなリーゼント寮長が外に出て行き「こらぁ!なんじゃあ!」と怒鳴ったくれたものだ。もしかすると同じ寮で過ごされた先輩方もいらっしゃるのでは,と思うのでもう少し語ろうと思う。
 寮には色んな人間が居た。風呂上がりにテンションが上がったのか,サングラスをかけて「俺はEXILEになるー!」と叫んで廊下を全速力で走り,ガラスに突入して大怪我を負った人も居た(寮はもちろん禁酒・禁煙である)。クリスマスには廊下でケンタッキークリスマスをしたし,年越しはみんなで迎えた。しかし寮は23時消灯で,その後は廊下に出ることは禁じられていたので,ドアをこっそり開けて小声で「あけましておめでとう」と言い合った。また,携帯持ち込み不可だったので,連絡手段は公衆電話しかなかった。家族や親戚からテレホンカードをかき集めて使った。もちろん古いものが多く,よく分からない演歌歌手がドヤ顔をしているカードがたくさんあった。そういったものは使い終わったら捨てていたが,写真館で撮影した家族写真がプリントされたカードは最後まで使えなかった。推定年少くらいの僕は,父の膝の上に乗っていた。テレホンカードは良いものだと思った。上京した友人とは電話だけでなく文通もした。紙に書いた文字を読むのはすごく良かった。
 寮のご飯はとても美味しかった。寮長の奥様がリーダーとなり,数人体制で約80人分の料理を朝・夕と作ってくださった。寮は男子寮であり,食べ盛りの18-19歳で溢れていた。何度か炊飯器の米がなくなり,寮長が急いでスーパーにサトウのごはんを買いに走ったりしていた。本当に毎日美味しかったが,やっぱりカレーは最強だった。夕方5時半に放送が入ると,みんな一目散に降りていく。階段を一段降りるたびに美味しそうな香りが近づいてくるのだ。他にも好きな料理はたくさんあった。いわしバーグとか,豚肉のピカタとか。あぁ,こんなことを書いていたら食べたくなってきてしまった。今夜の夕飯は豚肉のピカタに決定だ。
 寮のご飯は本当に美味しく,恥ずかしながら苦手だったトマトも克服できた。しかしどうしてもオクラは苦手なままだ。なんかこう,数本並んでいるのを見ると,剛毛な男性の手にしか見えず,食欲が沸かないのだ。
 学生のときに保育園実習というものがあった。クラスに1人ずつ配属され,園児とともに1日過ごす。といっても,その半分は運動会に使う大道具を雨のなか汗だくになって運搬していたが…。お昼は園児と一緒に給食を食べることになっていた。お米は各自持参とのことで,コンビニで買った白ごはんを持っていった。その日の献立のひとつがオクラの和え物だった。しかも気を遣っていただいて,園児の倍の量が盛られていた。好奇心旺盛な園児たちは,僕に向かって「早く食べて~」とか「食べてるとこ見せて~」とか言う。苦笑いで対応していたが,ここで痛恨のひと言。「先生,そのオクラね,私たちが庭で育てたんだよ,食べて~」と。オーマイゴッドである。僕は勇気を出してその倍量の和え物を口に入れた。悶絶した。急いで味噌汁を流し込んだ。驚くほど薄味だった。それでも流し込んだ。しかしまだたくさん残っている。また口に入れる。今度はお米を流し込んだ。しまった。僕が買ってきたコンビニの白ごはんは,チンするタイプのやつだった。パサパサしている…。こんな風にして僕は苦労して完食した。そんなこともあってか,1日の終わりの挨拶のとき「これから大人になったら,きついこともあるだろうけど,頑張ってください!」なんて言ってしまって,園児たちをポカンとさせてしまって帰ったのを覚えている。ちょっと調べたのだが,オクラの生産量1位は鹿児島らしい。そりゃあ園児も育てるわけだ。育苗の時期は4月中旬頃がベストらしい。ちょうど今くらいである。育ててみようかと思う。
 オクラも食べられない僕だが,おかげさまで研修医2年目を迎えた。この1年は本当に良き先生方に恵まれ,充実した1年間を過ごさせていただいた。今年は大学病院だけでなく,東京や離島で研修させていただく機会をいただけた。それから帰ってきたら,初期研修が終わり,その後すぐに平成も終わる。つまり僕たちは平成最後の研修医なのだ。悔いのないように生きていきたい。修行の日々は続く。
次号は,鹿児島大学病院小児外科の矢野圭輔先生のご執筆です。(編集委員会)



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