=== 新春随筆 ===

           『007半世紀のタイムスリップ』




社会医療法人緑泉会 会長
(中央区・中洲支部 整形外科米盛中央駅クリニック)  米盛  學

 それは一本の電話がきっかけだった。電話の話を聞きながら,思いは50年前の霧島温泉労災病院(平成16年3月31日付閉院)の手術場にタイムスリップしていた。

★「007」も怪我をする
 昨年9月,地元の南日本放送(MBC)の男性記者から電話があり「先生,50年前,ショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンド主演の『007』ですが覚えていらっしゃいますか」という話だった。『007』のロケ中に,世界的に有名なカメラマンが空中撮影中,右下腿の開放骨折で霧島温泉労災病院へ担ぎ込まれ,苦労して下腿接合術をしたことは忘れることの出来ない事実であるが,何故今頃,昔話をするのだろう。
 どこで聞いてきたのだろう。
 当時の写真,諸資料,南日本新聞,ロンドンデリー紙などを大きな段ボール箱に入れたまま倉庫にまとめて保管していたが,1993年(平成5)の「8・6水害」時に床上浸水により全て資料は泥に濡れて,貴重な資料は全て破棄せざるを得なくなった。余暇に自分歴とすべく整理の予定であった。
 しかし『007』霧島ロケ事故だけは忘れられぬ機密事項としてしっかり覚えている。事故日1966年(S.41. 9. 27)であった。
 早速,当時の新聞記事を調べてみると,4段見出しで「雑木林に機体散乱007ヘリ墜落」デカデカと掲載されていた。ヘリコプターで空中戦を撮影中にヘリコプター同士が近接しすぎて長身のカメラマン故,ヘリコプターから脚を機外に出しており,右下腿が回転翼にたたかれ大怪我を負ってしまう事故だった。

★50年の歳月
 記者によると,鹿児島ロケがあった『007は二度死ぬ』が公開されて今年で50周年ということで,それを記念して,いろいろなイベントが予定されており,県内外のファンも南さつま市に集まるという。
 「先生がその大怪我をしたカメラマンの大手術をされたということを知りました。もっと詳細に実情話を聞かせて頂きたい」ということで,「MBC番組に記録させてください」ということだった。「半世紀前のことで,当時のカメラマン負傷のことを知っている生き証人がほとんどいません」という言葉に,長い時の流れを感じた。
 たしかに『007は二度死ぬ』は,鹿児島の坊津の秋目海岸や霧島の新燃岳で撮影があった。
 しかし映画を観ても実際の事故状況,手術場の様子などのシーンがスクリーンに出るはずもない。坊津にはロケ地に記念碑が建っているということぐらいは新聞で知っていたが,県内外のファンが鹿児島に集まってくるとは思いもしなかった。
 一般的に『007』と聞いて思い出すのは新兵器が次々と出てくるカッコいい映画シーンであったが,小生にとっては,長時間に及ぶカメラマンの手術に関する幾多の追懐に浸ってみる。

★「Don't cut out」
 昭和41年9月27日昼過ぎ,椎間板ヘルニアの手術準備中,事務長が,「大事故発生。なんとかなりませんか?」と大声でかけ寄る。そこへ右大腿を自転車のチューブで駆血された大男の外人が「Please morphine morphine hurry please」と叫びつつ運びこまれてきた。
 下腿以下は大出血。ホリゾン静注し,受傷部を直視すると,木片を用いたシーネで固定され,下腿の向きは外旋転位。緊急手術と判断。手術予定患者とその家族に事情説明を行い,手術の一日延期承諾を得た。
 外傷患者は196cmの長身で急遽手術台を工夫した。内山一雄外科部長(故人)が全麻をかけようとすると,患者が大きな手で小生の腕をしっかり握り,「Don't cut out my leg please goddoctor」涙を流しつつ何度も祈りつづける声と姿は,今でも耳に残り瞼に焼き付いている。
 小生は「Excuse me.ok. Don't worry about it」と慰めるしかなかった。
 先ずは,ヘパリン,抗生剤を充分にいれた生食水で徹底的に洗浄した。すると,5cm幅程度の下腿「ひらめ筋」の一部と,皮下・皮膚組織で僅かに連続を保たれていた。横断面は,まるで鋭利な刃物で切った状態で完全離断ではなかった。

★断端部接合の決断
 小生の心中では,「この状態で断端形成すれば・・・」との考えが強かったが,患者の涙ながらの懇願の様子が心に残る。
 鹿大時代の動物大腿切断肢再接合実験が反射的に浮かんできた。麻酔医,助手とも協議の末,もし動静脈接合が失敗に終わったら断端形成に移れば良いと決断。よく観察すると,中枢・末梢面断端は絵図に示された状態である。

★術中の要約
 重要三動脈中,幸いのことに腓骨側面に位置している腓骨動脈は1/2損傷で僅かに保たれており,損傷部を二重縫合し,直前面にある腓骨静脈群は,素早く端々縫合。その後,脛骨動・静脈,深部腓骨動・静脈は次々と端々縫合し,同時にヘパリン注射の動注を行った。
 駆血帯除去後,約10分間切断部以下の様子を見ていると,明らかに血色を帯びてくるではないか。それをみて気が弾はずむ。
 早速,後脛骨神経,深部腓骨神経,腓骨筋皮神経を直視下で全て神経周膜のみ端々連続縫合を終え,脛骨接合を試みようとすると,脛骨後面に著しい骨欠損部を認め,直ちに腸骨から採取した骨を遊離移植して,プレートにて固定。腓骨の断端面接合は容易にプレート固定された。
 次に,残された筋・腱全てを確実に端々縫合した。ところが,下腿前面の皮膚が約8cm程度欠損している。減張切開を行い,さらにスライディング植皮を試みても被覆不能。同下肢の後脛骨動脈分岐血管より5cm大の血管付き皮膚を移植し,その新たな皮膚欠損部には,腹部皮膚を採取し,遊離植皮を行った。
 大腿から足尖部までのギプス包帯を巻き込み,終了したのは,丁度日付が変わる午前0時であった。

★教授たちも来院
 私の手術経験では最長の時間を要し,また無事に手術を成功できたのは麻酔担当の内山一雄先生(手術中の実情を手術室前にたむろして待つメディアに一刻一刻,説明役の苦労をいとわず)の寛大さと,当時整形外科新入局員で労災病院出張中に大手術の助手役を立派に努めて頂いた,現今給黎病院理事長の今いま給きい黎れ尚たか典のり先生のおかげである。
 霧島大浪の池上でのヘリコプター空中撮影は,全日空が全て英国の映画会社から請負っていたらしく,全日空担当者からは国交省等への報告のためか,診断書は可能な範囲で軽症記入を希望された。手術記録は事実どおり記録したものの,診断書は「右下腿開放骨折」と簡明に書き,手術内容は詳記しなかった。半世紀前の事なのに手術及びメディアへの術後説明対応には,非常に気を配ったことなどクッキリと記憶に残されている。
 術後2日目には,九大・天児民和教授(故人)と鹿大・宮崎淳弘教授(故人)が全日空に依頼され,一緒に来院された。経過観察をされた後,「苦労でしたね。良くやったなあ」との労いの言葉に恐縮した。自分の直弟子が九大教授に立派な功績を直接知って貰えたせいか,宮崎教授も得意満面風の容姿が印象的であった。
 実はそんなことよりも,内心は,ギプス中の下腿植皮の生着具合が大心配であった。幸いに術後熱発軽度であり,感染は防止できたものと軽い自信めいた予感はあった。
 4,5日後,聖路加国際病院より3名の通訳を兼ねた看護師が派遣されて来たが,全く役に立たなかった。全日空は聖路加国際病院への転院を期待していた模様だった。英国から令夫人が来日されたこともあり,患者J.ジョーダン氏も労災病院での治療を強く希望してくれた。天児教授が「当分,霧島労災での治療がベストだ」と全日空に伝えてくれたらしく,聖路加Ns.は早々に帰京した。
 術後7日目,ときめく胸を押さえつゝギプス広範囲開窓。植皮部分,縫合部分全てクリーンで,術後経過は満足すべき結果であった。3週目には腫脹減退も見られ,右下肢ギプス固定下で歩行器下歩行可能となった。1カ月もすると足関節・足趾の可動性も見られた。脛骨植皮部一部に軽度の分泌があったが,さらに有窓ギプスを開大し,あとは消毒のみとなった。結局,術後44日で退院となった。

★退院から東京滞在
 退院は高千穂河原から宮崎空港までヘリコプターで飛び,そこから羽田空港迄チャーター便。東京は病院ではなく,完成直後のホテルニューオータニのコネクティングルームだ。
 小生はジョーダン氏を羽田で英国行きチャーター機へ乗せて,英国医に依頼するまでが業務命令で,隣の同等の部屋へ一人ポッチ。帰国まで見送るつもりが,ジョーダン氏は小生にグレートブリテインまで帯同してもらう算段であったらしい。これは想定外のことで,労災病院の荒木崇文院長(故人)からは「英国の医師を呼べ」との命令。おかげで英国の整形外科医が来るまで,丁度一週間オータニ泊まりとなってしまった。
 治療時間は朝方局所消毒とガーゼ交換のみで,後はすぐトランプゲーム。ご機嫌伺いの全日空の方に,いささか退屈気味だと話したところ,翌日から読売カントリーや霞ヶ関カントリーなどで4日間,全日空役員との交流ゴルフ。夜は銀座での毎晩接待がつづく。恐れ多くも「苦あれば楽あり」と感謝でした。6日目の夜,やっと羽田のチャーター機の中でジョーダン氏とのお別れとなった。別れ際,両者とも目に涙を溜めつつ「See you again in Great Britain Dr.yone」,「I hope so me too. Have a nice flight」

★一役終えて
 特殊撮影にかけては世界的に有名で「ロシアより愛をこめて」「ナバロンの要塞」や「エル・シド」などの映画を手がけた人であったと,あとで分かった。
 「カライモ英語」中心にうまく意志疎通もとれ,私も約1カ月半の間自宅にも帰れなかったが苦労感はなく,むしろ楽しかった。術後,彼が気分のよい日に「The English are a grate people」と話すと,即座に真剣な表情で「No English!! You can speak Great British English」と大笑い。
 愛国心の強い人だったのだと思う。帰国後何回も,ご夫婦から手紙が届き,「日本の端のしかも山の中にあんな立派な病院がありMy god doctorに出会えて幸福に思う」と,よく感謝の念が書かれていた。
 ヘリコプターに身体固定のうえ機外に両下肢下垂するやり方は,空中撮影時の常套手段であることは全日空も承知していただろうが,「事故は運悪くエアーポケットに入ったのでしょう」という彼の言葉は,英国紳士らしく寛大な人柄を感じさせるものだった。
 帰国から3年くらいは文通して安心していた。彼からの返信が途絶えたころ,彼の自宅へ電話をしてみた。奥さんによるとその後,杖なし歩行も可能で,5年前迄はチーフカメラマンを務め,次の「007」も撮影した。その後,病に冒され症状悪化,半年前に亡くなっていたと知らされた。
 大きな驚きと悲しみに,ポッカリと心に穴が空いたような寂しさに襲われたことを思い出す。

★タイムマシンよ 早く出よ
 この世に生を受け早や84年となった。
 今回,はからずも一本の電話から50年前の出来事が鮮明に蘇ってきた。それまですっかり忘れていた事柄が,あんなにまで鮮明に出現するとは夢想だにしなかった。
 いま,忘れ物や忘れ事で少々うんざり気味の毎日を過ごしているが,50年前の貴重な手術現場となった霧島温泉労災病院や手術カルテをはじめ,小生のいろいろな資料もない中で記憶をたどることができた。大げさに言えば歴史の証言者としての記録を残せたことは望外の喜びだ。
 ひと昔前の映画に未来と過去を往ったり来たりする「タイムマシン」がよく登場していたが,いまだにそのタイムマシンはない。だが,今回は「電話タイムマシン」に飛び乗って半世紀前まで行くことができたような気分だ。日々薄れゆく記憶を自由に取り戻せることができたらどんなにかこれからの人生に張りが出ることだろう。早く出てこいタイムマシン!
 尚,MBCの『007』50年の見えないエピソードとして近日放映されるそうです。資料なしの半世紀が現代にどのように再現できたか,少々不安です。

1966(昭和41)年9月27日付 夕刊3面
1966(昭和41)年11月21日付 夕刊3面
ヘリコプター事故は当時の南日本新聞にも夕刊,朝刊で大々的に報道された。(南日本新聞社提供)

撮影が行われた坊津秋目には「007」の記念碑がある=南さつま市坊津秋目

ジョーン・ジョーダン氏から送られてきたナイチンゲール像。この像は永らく霧島温泉病院の正面玄関に
設置されていたが,同病院の閉院に伴い労働福祉事業団理事長から本院に寄贈された。
今では我が病院の象徴的な存在になっている




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