=== 新春随筆 ===

        人間万歳:脳の秘める驚くべき力




 
鹿児島大学名誉教授・米盛病院リハ科顧問  田中 信行

 我々が二本足で歩き,手を使い,記憶し,言葉を操ることも驚くべきことではある。しかし脳にはより大きな力があり,例えばプロの運動選手の超人的な運動能力や歌手の歌唱力,優れた画家や彫刻家の手が生み出す芸術的作品には,唯々感嘆の他はない。
 これらは大きな努力の賜物であるが,それは訓練による脳機能の変化,即ち神経線維やシナプスネットワークの再構築の結果である。今日更に多くの事をロボットや人工知能(AI)に委せようとしているが,訓練や努力による脳力の育成の方が,より人間らしい未来を開くと思われる。

普通の人が示す超人的能力
 アフリカやモンゴル高原の人々の超視力:NHKアーカイブスで,アフリカやモンゴル高原の人々の高い視力を取材し,500m先の点にしか見えない物やランドルト環を全て正答し驚いた。
 モンゴル草原の競馬の取材では,まだ馬が一キロ位先の折り返し地点にいる辺りで,もう村人は誰が一番だ,二番だと大騒ぎである。取材のアナウンサーが「何も見えないが」というと,怪訝な顔で眼が悪いのかと言われた。ジャングルでは,人間も動物も4〜500m先の獲物や猛獣が見えなくては生きて行けず,モンゴル高原では1〜2km先の放牧の羊や狼が見えなくては羊は飼えず,それに適応,進化した視力の良い人間だけが生き残ることになる。
 イチローと速読おばさんの豪速球バッティング:イチロー選手は,時速140〜150kmの豪速球のカーブやスライダーを見事に打ち分ける。これは「動体視力」といわれ,卓球やバレー,バドミントンでも重要となる。ある番組では,有名プロ野球選手を時速250キロの上りの新幹線に乗せ,同じく250キロですれ違う下りの新幹線の窓に貼った文字を読み取らせた。「日本リーグ優勝おめでとう」の文字を瞬時に読み取り,皆びっくりした。 
 一方,「速読」の名人は200ページの本をパラパラと5分間めくるだけで,その内容を記憶する。その訓練の本やビデオもあるが,これをやっている三人の中年のおばさんをバッティングセンターに連れて行った。始めは120kmの豪速球に「ウヮ〜早い」といっていたが,5〜6球目からは全員ヒットし,「球をよう見て当てるだけや」と言っていた。
 特殊な例では,ある風景を写真のように記憶し,それを絵や言葉にするカメラアイやサヴァン症候群も知られている。
 カラヤン氏の超人的聴力と香水調合士:これも確かNHKのBSテレビで,ベルリンフィルの常任指揮者カラヤンがリハーサルで二十種近い楽器,100人余のオーケストラを目を閉じて指揮していた。突然,指揮を中断して一人の奏者をゆび指し,「三列目,左から五人目のバイオリンの貴方,第三小節の音が半音低い」と指摘したが,まさに超人的な聴力と空間認知力である。
 またフランスの有名な香水,ゲランのミツコやディオールのプワゾン,ダナのタブー等は我々男性を魅了するが,いずれもバラやジャスミン,麝香など八〜十種類の香料を調合して作られる。その香水調合士(パフューマー)はある香水を一嗅ぎして十数種類の原料と比率を言い当て,その嗅覚にも驚ろかされた。

超人的能力の神経生化学的メカニズム
 これらは視覚,聴覚,嗅覚に関する「超人的能力」を,厳しい生活環境や訓練の中で獲得出来る人間がいることを示している。培養神経細胞の電気刺激では,樹状突起やシナプスの成長が観察されている。適応や訓練による脳機能の発達は,超視覚者は極微,瞬時の動きを認識すべく,網膜・視床・後頭葉の神経細胞が発達した神経線維とシナプスにより高密度に再構築され,体操選手は前庭神経や深部覚と小脳,基底核の神経回路が高度に再構築された結果である。
 それは反復する神経細胞の興奮が,感覚受容体やイオンチャネル,樹状突起やシナプス蛋白を作る核の「m-RNAの生成」を増やすことで達成される。この機構は全ての人の遺伝子に組み込まれており,教育や訓練,そしてリハビリによる機能回復の基盤でもある。
 それは我々凡人でも訓練次第でかなりの「超人」になれることを示しており,安易なAIの導入は更にこの脳機能を退化させることになる。それは単に末梢感覚器のみでなく,ゲーム脳では明らかな前頭前野の機能低下が報告されている。

私見:漢方は如何にして発見されたか−古代人の超感覚分析
 昔,第三内科の丸山征郎先生に,漢方ではシャックリには「柿の蔕(へた)」(蔕柿湯)が効くとされ,実際著効したと聞き驚いた。数千年の歴史でも,シャックリの人が柿の蔕を煎じて飲む偶然がそうあるわけはなく,何か漢方発見の理論があるはずだと思った。
 漢方は中国太古の三皇五帝の一人神農氏が“百草を験してその効を伝え”,その後数千年の試行錯誤を経て今日の複雑な体系が創られたといわれるが,単なる試行錯誤で複雑な漢方の治療体系が出来るとは思えない。漢方に限らず,世界中でジギタリス葉末や麻黄末(エフェドリン),芥子の樹液からの阿片やコカ葉からのコカインの様に伝承的な草根木皮があり,現代の薬物もそれらから抽出,合成に到ったものが多い。しかし,神農氏や古代人は,如何にしてその効を知ったのであろうか。
 牛や馬は毒草は決して食べないが,人間にもそんな鋭敏な味覚や嗅覚,内臓知覚を持つ者がいても不思議は無い。前述の高度の能力を持つ人々の話から,私は漢方薬はそんな能力を持つ古代人の「超感覚分析」と考え,以前,県の内科医会報に「私見:漢方の発見」として投稿した。
 我々は長い文明生活の中で,視・聴・味・嗅覚は勿論,内臓や皮膚感覚も大きく鈍化した。文明生活による神経刺激の不在が,濃密な神経構築を退化させたのである。しかし自然人の神農氏や古代人はその機構を保持し,ある草や根を噛んで「胃や腸の動きの抑制」や「心臓の動きの増加」等を感じ,また柿の蔕を噛んで横隔膜の動きの抑制からシャックリへの効果を感得したのであろう。
 漢方は,単に誤って摂取した中毒症状の蓄積や,長い間の偶然の試行錯誤から発見されたものとは思われない。数千の草根木皮を飲み下し,「超感覚」で感知した内臓や身体各部の変化を書き記し,その後多数の超感覚者の追試を経て,今日に到っているものと思われる。
 原子炉や高温・高圧下の作業はロボットに委せるしかない。しかし繊細な技術や芸術,ましてや相手の考えを読む事などは,人間の温かみを感じさせないロボットやAIよりも,自然や訓練,努力の中で育成される脳機能に「人間万歳」の喝采を捧げたい。




このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2018