=== 新春随筆 ===

       年 男 と 知 っ て 思 う こ と
(昭和33年生)



北区・上町支部
  (内村川上内科) 川上 秀一

 鹿児島市医師会の先生方,新年あけましておめでとうございます。本年もご指導ご鞭撻のほど,どうぞよろしくお願い申し上げます。
 2018年は私にとって,年男というだけでなく,還暦を迎えます。自分はまだまだ若いと思い込んでいますから,『赤いちゃんちゃんこ』を羽織ってお祝いという光景はなかなか想像できません。ただ,心身ともに元気にやれる12年と思ってがんばろうと思っています。ついこの間まで,60歳で定年退職するという働き方がありましたが,現在は人口減少社会です。生産年齢人口が不足し,経験豊富な社員が職場を離れることが憂慮されています。最近は定年が65歳という企業が増えているのではないかと思います。医師はどうなのだろうと気になり,公立病院や大きな民間病院に勤務する友人医師に訊いてみました。65歳まで働けるようですが,早く引退したいと考えている人が多いようです。私の場合,定年はないものの,65歳どころか75歳になっても働いていなければだめだろうと思います。それは子供が一人前になっていないのが一番の理由です。そういうことで私は還暦を過ぎても自身の健康に留意しつつ,また,老害と煙たがれない程度につつましく患者さんたちに医療を提供していけたらと希望しています。
 さて,医師になって35年,開業医になって19年が経ちます。鹿児島市立八幡小学校,鹿児島市立天保山中学校,そして鹿児島県立鶴丸高校,鹿児島大学医学部と歩んできました。現在は縁あって吉野の地に家を建て,開業医として日々の診療に従事しています。とくに私のクリニックでは地域のかかりつけ医として,患者さんの最期の看取りまで行っています。看取りの場所はさまざまで,当院の病棟であったり,患者さんの自宅,あるいはグループホームの自室やサービス付き高齢者向け住宅の自室であったりもします。
 ここ数年,昔の同窓生のご両親のかかりつけ医になることが増えています。ざっと思い出してみるだけでも10人を超えています。内訳は小中学校時代の友達のご両親が4人,高校時代3人,大学時代2人‥。同窓生のご両親は当然のことながら,私の両親と同世代の80歳代から90歳代です。かかりつけ医になるのは自然の流れであるとも言えます。還暦を迎える私たちの世代は親の介護に奔走し,親を看取る体験をする時期に来ているようです。両親と同じ昭和一桁生まれの方々は,太平洋戦争という食糧難と家族離散などの悲劇の中を必死で生き延び,昭和の高度経済成長の時代をけん引してきた強い日本人です。私はすでに両親を亡くしているにもかかわらず,会話をしていると,不思議な懐かしさを感じ,父や母がそばに居るような錯覚に陥ることもしばしばです。
 医師という職業は,とても親孝行な仕事だと私は思っていました。自分の親の主治医になれば,一般の人以上に濃厚な関係を保てるからです。しかし,現実は私の想像を超えるものでした。長く両親の主治医を務めたにも拘らず,両親が最期を迎える時に,私は息子として話をしたり手を握ったりすることさえできませんでした。主治医として死亡確認をしただけに終わってしまったのです。私は両親の主治医としてだけでなく,幅広く医師の仕事に従事せざるをえなかったからでした。今も両親に本当にすまなかったと思っています。『芸人は親の死に目に会えない』といいます。芸人だけじゃない,と心の底から思ったものでした。 
 父は平成12年からずっと在宅医療で診ましたが,途中直腸癌を見つけ,3回の手術を外科の先生にお願いして受けさせました。癌と仲良く7年間生き,一緒に酒を飲んだりドライブに行ったりと自由に生活し,晩年は幸せだったと思います。しかし,どうしてもキャンセルできない理事長としての仕事があって,亡くなる直前の1時間を一緒に過ごしてあげられなかったことは私には大きな悔いが残っています。
 母の最期も似ていました。在宅医療で診ていた母が肺炎になったため,私のクリニックに入院させました。それから数日後,母の容体が急に悪化したのは,私のクリニックが鹿児島市医師会の休日在宅医であった日曜日の午前中のことでした。このときは本当に困りました。診療中も,二階の病室にいる母親のことが私の頭から離れません。いつもなら,私のクリニックに初めて来てくださった患者さんの訴えを聞き,診断するということは,さほど大変なことではありません。しかし,このときばかりは,必死になって診療したことを憶えています。午前の診療時間が,いつまでも終わらないかのように長く感じられました。やっと母のそばに駆けつけたとき,心肺停止の状態になっていました。もちろん蘇生はしませんでした。
 両親を看取るという大仕事は終わりました。次の年男になるまでの12年間,腰を据えて自分の好きなことや興味のあることを自分のためにもなるようにやってみようと考えています。人間のエネルギーを生み出す代謝を意識した医療を,一般臨床家として挑戦したいと考えていましたが,少々大きな課題のように思い,まずは,栄養と運動を日常生活に密接に関連させて取り組んでみたいと思っています。さらにこの栄養と運動のシステムを,医療と介護のシステムに融合できたら素晴らしいと,新年の夢を見ています。




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