=== 随筆・その他 ===


海外旅行・思い出のハイライト(3)
ハワイ,真珠湾
中央区・城山支部
(高見馬場リハビリテーション病院) 林  敏雄

 平成28年5月27日はアメリカのオバマ大統領が,現職のまま戦後71年目にして初めて,広島を訪問した日として歴史的一日となった。広島平和記念公園では,安倍首相と並んで原爆死没者慰霊碑に献花したあと,17分に及ぶ素晴らしいスピーチで日本国民に感動を与えた。この太平洋戦争終戦時に対し,開戦時の犠牲者を日本の首相が慰霊するのは当然と思われた。それが同年末の2日間,ハワイの真珠湾において行われた。
 安倍首相は岸田外相,稲田防衛相等を伴って12月26日ハワイに到着,まず国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)を訪れ,3万人超の兵士らの魂が眠る墓前に献花し黙祷を捧げた。ついで明治以来の日本人移民が眠るマキキ日本人墓地を訪問して慰霊し,平成13年2月9日(現地時間),宇和島水産高校実習船「えひめ丸」が米潜水艦と衝突した時の9人の犠牲者の慰霊碑を訪れ献花した。最後に飯田房太海軍大尉・記念碑を訪問した。飯田大尉はゼロ戦パイロットで,真珠湾攻撃に際し,カネオへ海兵隊航空基地の攻撃で燃料タンクに被弾した。しかし母艦に帰ることを諦め,格納庫目掛けて自爆した。米軍は勇敢な日本軍人として彼を丁重に葬ったという。彼は2階級特進して中佐となり,戦争末期の神風特攻隊のはしりとも言える。安倍首相は日系人との夕食会のあと1日目の日程を終えた。
写真 1 パンチボウル 左:筆者

写真 2 ハワイ大学 右:Dr.マツモト
中央は農学部,右の三角屋根は医学部

 私のハワイ訪問の1回目は昭和51年3月で,当時国立鹿児島病院内科の勤務医であったが,まだ日本人観光客は少なく,朝早くホノルル空港に着き,日本人ガイドの案内で市内観光に出発した。有名なカメハメハ大王像を見てからパンチボウルに回った(写真1)。ここは海岸から3kmほど北の丘の上で,ホノルル市街地やダイヤモンドヘッドを一望できる素晴らしいロケーションであった。広大な芝生にはハワイ出身の3万人超の戦没者の墓石が並び,その全部に花が添えられていた。慰霊碑には戦功を讃える碑文と戦没者の氏名が刻まれていた。
 翌日は待望の真珠湾訪問で,ワイキキビーチの東端にあるホテルから西に向かってバスを走らせて真珠湾近くに来たところ,施設は工事のためしばらく見学はできないという。仕方なしに真珠湾が一望できる丘の上まで移動して,ガイドさんから真珠湾奇襲の日の説明を聴いた。当日は日本より1日前の日曜日で,突然西の山から数百機の日本海軍機が現れ,停泊中の数十隻の米軍艦目掛けて爆撃を開始した。当時の大混乱のありさまは想像を絶するものだったらしい。観光はドール・パインアップル農場見学に切り替えられた。
 翌日はフリーだったのでハワイ大学を訪問し,農学部の教授でソテツ毒の研究をされているDr. マツモトを訪ねた。私もソテツ毒の発がん性を研究していて,昭和47年,教授は私達の研究室に訪ねてこられた。ハワイでは私の訪問を大変喜んでくださり,日系二世の方で日本語も大体分かられるので楽しい一時を過ごすことができた(写真2)。
 安倍首相の2日目は真珠湾ビジターセンターの訪問で,「戦争までの道のり」と「攻撃時資料博物館」の2つの展示館で説明を受けてから,シャトルボートでアリゾナ記念館に向かった。戦艦アリゾナは日本機の急降下爆撃が火薬庫に命中し,9分で沈没した。戦死者のうち75人の遺体は回収されたが,1,102人の遺体はアリゾナで永遠の眠りについたままになっていて,慰霊のため昭和37年,白亜のアリゾナ記念館がオープンした。安倍首相とオバマ大統領は2人揃って戦死者の氏名の刻まれた大理石の壁に献花し黙祷を捧げた。その後,両首脳は海底に沈むアリゾナを臨みながら,花びらを撒いて慰霊した。このあと対面のキロ埠頭に移動しそれぞれ所感を述べた。安倍首相のスピーチは広島のオバマ大統領と同じく慰霊の言葉のみで謝罪はなかったが,釣り合っていて良かったと思う。特に「寛容の心」と「和解の力」に重きをおいて語られた。真珠湾攻撃ではゼロ戦のパイロット飯田大尉の勇気に敬意を表して米軍が碑を建ててくれたこと,戦後の日本の飢餓・窮乏期に援助を与えてくれたことは「寛容の心」の表れだという。日米同盟ができたことは「和解の力」の表れで「希望の同盟」だという。今後とも真珠湾を寛容と和解の象徴として記憶し続けていきたいと結んだ。安倍首相は大勢の出席者の最前列に座っていた数名の老兵達と固い握手を交わして式典を終えた。
 私の2回目のハワイ訪問は平成24年6月で,1回目から41年経っているので日本人観光客も多く,街の様子も変わっていた。前回叶わなかった真珠湾訪問が目的だったので,早速ツアーを申し込んだ。ツアー前日には30分のヘリ観光($155)でワイキキの海岸,ダイヤモンドヘッドと真珠湾を上空からたっぷり見ることができた(写真3,4,5)。

写真 3 観光ヘリの女性パイロット
写真 4 真珠湾空撮
写真 5 アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ

 真珠湾内は軍港であるが,一部は観光化されてアリゾナ記念館や戦艦ミズーリ記念館は見学できるし,美しい公園となっているので撮影は自由であった。アリゾナは入館希望者が多く1回80人のグループに分けられ,我々10数人は朝早く行ったのに午後にまわされた。仕方なしにミズーリ見学からすることになった。戦艦ミズーリでは昭和20年9月2日降伏文書調印式が行われた。その後,トマホークなど最新の設備を持った戦艦に改修され湾岸戦争などに出動,平成4年退役,平成10年から記念館として真珠湾に展示されている。沖縄戦では鹿屋を出発した石野二等兵曹が操縦する特攻隊が右舷に当たったが爆発せず,艦は大きく凹んだ。米兵が戦死した石野兵曹を海に投げ捨てようとしたら,艦長が「敵兵でも国のため命を捧げた勇士である。丁重に葬ってやりたい」と指示して,翌日,手作りの日本軍艦旗に包み礼砲5発撃ち,全員敬礼して水葬したという。艦長の配慮には心打たれるものがある。
 このあと2つの博物館と(写真6),20分ほどの真珠湾奇襲の映画を見てからボートでアリゾナ記念館に渡った(写真7,8)。水深が浅いので海を見ると錆びたアリゾナが見えるし(写真9),72年前の重油が滲み出てくるのを見て驚いた(写真10)。見学者の声は無く,戦死者の名前を刻んだ白壁の前に佇んだり(写真11),沈んだアリゾナを見守るかのように艦首を向けているミズーリを眺めたりしていた(写真12)。開戦と終戦にまつわる2隻の軍艦を同時に見て不思議な気もした。ワイキキ海岸には日本人が溢れているのに,真珠湾を見学する日本人はごく少数で,訪問者の5%位という。戦後生まれが多数になった今日,仕方ないのかもしれない。

写真 6 博物館のアリゾナ模型 写真 7 アリゾナ記念館の出入口 写真 8 アリゾナ記念館の内部
写真 9 アリゾナの砲塔 写真10 アリゾナから出てくる重油 写真11 戦死者名表
写真12 アリゾナから見たミズーリ

 日米交渉でハルノートの提示が事実上の最後通牒だとして日米開戦になり,その臨時ニュースを聞いたのは昭和16年12月8日の朝,東京の小学校6年生の時だった。アメリカに勝てるわけはないと思っていたので,腰を抜かさんばかり驚いた。しかし真珠湾奇襲で米国太平洋艦隊をほぼ全滅させたと分かりほっとした。ただ最後通牒を渡したのが奇襲後1時間経っていたので,アメリカは騙し討ちに遭ったと国民を大いに煽って戦意高揚に利用した。遅れた理由として最後の暗号電文が届いたのが手交当日(日曜)の朝で,前日は大使館員の異動で送別会をやったりで,文書作成に時間がかかって間に合わなかった,というのが通説になっている。
 あとになって分かったのは最後の電文はもっと早くきており,アメリカ側は外交暗号を解いてルーズベルト大統領やハル国務長官は内容を知っていたが極秘とし,真珠湾から空母を避難させていたという。昭和天皇,山本連合艦隊司令長官は事前通告を必ずすべしとの考えだった。東郷外相(七高,東大卒)は自衛戦争の場合はしなくてもよいと知っていたし,奇襲でなければ勝てないとの軍の考えもあり,結局通告を遅らせたのではないかとも言われている。最後の手段として手交予定時間に国務省に出向いて口頭で通告し,後で文書を届ける手もあったろうにと思うのだが。怠慢とされた大使館員2人は罰を受けるどころか事務次官まで榮進したし,大使館勤務の新庄陸軍大佐(情報,諜報関係)が謎の死を遂げ,野村大使は当日葬儀に出席していて最後通牒手交に遅れたという説もある。戦争はしないとの公約で大統領になったルーズベルトは,ドイツの攻撃を受けて危機的状態にある英国のチャーチル首相から参戦するよう懇願され,日本を戦争に引き込むことを考えて成功した。やがて日本の海軍暗号も解読して,昭和17年6月のミッドウェー海戦では真珠湾所属の空母が,日本の空母をほぼ全滅させ,日米形勢は逆転し,日本は敗北する悲しい結果となった。



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